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2025年12月17日


今日、ラピュタ阿佐ヶ谷で、『ラマン』を観てきた。
観たのは、完成公開された当時以来だと思う。
語弊を恐れず記すが、自分の力量不足を悔いるとともに、様々な感慨も覚えた。
拙い脚本で苦労をかけた廣木隆一監督、スタッフ・キャストのみなさんに、改めて感謝したい。
特に、本当の華子と大杉連が本屋で遭遇して交わす会話から、4人が海へ花火を観に行く流れ。
あそこから偽りの華子のモノローグが始まる意図を、ホンの通りに描いてもらえていて嬉しかった。

さて、この上映は、プロデューサー成田尚哉特集のプログラムだ。
成田さんは、僕が映画監督になるきっかけを作ってくれた恩人であり、たぶん最も昔から接点のある映画プロデューサーだった。
最初にお会いしたのは大学生の頃だが、そこまで遡ると話が長くなるので、はしょる。
おそらく、成田さんにとって七里圭という存在がはっきり認識されたのは、廣木監督『MIDORI』の助監督のときだろう。

のちに窪塚洋介となるモデルのヨースケさん演じる自主映画少年が、みどりに送り付ける自殺予告ビデオ。
つまり劇中映画をセカンド助監督の仕事として、主役の嶋田博子さんを撮影して作ったのだが(実は本編ではほとんど映っていない)、その映像を見た成田さんが、「七里、何か企画を持ってこい」と言ってくれたのが始まりだ。
僕は、山本直樹さんの漫画2冊(光文社刊『君といつまでも』と『夢で逢いましょう』)を持って行き、これに入っている『眠り姫』か『のんきな姉さん』がやりたいと言ったのだ。
1996年のことだった。

Vシネ全盛の当時、エロものとして成立しやすいという理由で企画が『のんきな姉さん』に絞られてから、待つこと三年。
たびたび呼び出されるが進捗はなく、その間に僕はチーフ助監督に昇格したり、監督補を経験したり。
それなりにキャリアを重ねつつ、TVの深夜ドラマ(『七瀬ふたたび』)やVシネ(『独房X』)を監督するようになっていた。

はっきり言えば、もう『のんきな姉さん』のことは忘れかけていた。
そんなある日、成田さんに突然呼び出されて、脚本執筆のゴーサインが出されたのだ。
1999年の夏だった。
えっと思うほど低予算ではあれ、映画製作の企画だった。
劇場公開の映画は、まだフィルムで撮る時代だ。
条件はかなり厳しいが、やってやろうと思った。

悶え苦しみながらも秋には初稿を書き上げ、成田さんはとても気に入ってくれたのだが、思いがけない出来事が起きた。
詳細は記さないが、それゆえに他にプロデューサーを探すことになった。
映画製作は継続できたが、成田さんは製作から離れた。
そして、成田さんが誉めてくれたホンは結果的に捨てることになり、新らたに全く違うホンを同じ原作から書き直すという事態に至る。
それが、今ある『のんきな姉さん』だ。

この『のんき』の製作過程は、まさに地獄だった。
最初の制作は、撮影途上で頓挫した。
(そのとき撮ったショットを、後に新たに構成し直した作品が、短編『夢で逢えたら』だ)
スタッフ・キャストは総入替えとなり、仕切り直して初顔合わせの面々と苦労して撮り上げたフィルムは、仕上げ(ポスプロ)中に出資の雲行きが怪しくなる。
すんなりラボで初号を迎えるというわけにはいかなくなった。
一時はお蔵入りになりかけて、ようやく劇場公開できることになる2004年までに、四年の歳月が流れる。
その間に僕は、ほとほと映画業界に嫌気が差してしまった。

しかし、食うや食わずの窮状に手を差し伸べてくれたのも、映画業界の人々だった。
成田さんは、少しは責任を感じてくれていたのかもしれない。
初監督した作品がそんな憂き目に合いかけていた頃、「七里、廣木のホンでも書くか」と依頼してくれたのが、『L’amantラマン』の脚本仕事だった。
2002年の暮れか、翌年の年明けだった。
それは、成田さんがついに自分の会社(アルチンボルド)を設立するための、立ち上げ企画でもあった。

初稿を上げてから1年ほど経ってクランクインも決まり、現場に向けてホン直しに入ったのは、ちょうどテアトル新宿『のんき』公開初日(2004年1月10日)が明けてから。
締切までの1週間、超特急で直しを上げたのは、もうその頃には自力で『眠り姫』の撮影に取り掛かっていたからだと思う。
『L’amantラマン』は、初号はもちろん観たはずだが、劇場公開時(2005年2月5日)の記憶がほとんどない。
それもたぶん、ふた冬かかった『眠り姫』の自主製作にかかり切りになっていたからだろう。

インディペンデントに舵を切った僕は、その年の5月には『眠り姫』を生演奏で上映するのだが、成田さんはその自主上映会も観に来てくれた。
「帰り道、いろんなことを考えたよ」と言われたが、どんなことを考えたのかは聞かなかったと思う。
僕は、意地を張っていたのかもしれない。

それから5年後の2010年、成田さんともう一度、監督作の企画を二つ取り組むのだが、そのどちらも別の理由でうまく行かなかった。
決定的だったのは、翌春に起きた大震災だ。
あの混乱期に、商業映画を企画するという道から、僕の歩みは大きく外れていく。
僕は『DUBHOUSE』でエクスペリメンタルの作家と認識され、「音から作る映画」プロジェクトに突入する。
そして、いわゆる業界的な映画製作から遠く離れた辺境で、映画と取り組み、今に至る。

とは言え、その後も成田さんとの付き合いは続いた。
たまになんとなく、酒をご馳走になっていた。
最後に話したのは、亡くなる年の初夏、6、7月頃だったか。
久々に電話をしたら、余命3ヶ月を宣告されたと打ち明けられた。
奇しくも電話の用件は、梶原阿貴さんの連絡先を聞くことだった。

人生にもしもはありえないが、もし『のんきな姉さん』を成田さんプロデュースのまま、監督することが出来ていたら。
初めに書いた脚本通りに、耽美でエロティックなファンタジーとして姉弟の近親相姦を描いた作品で、僕は映画監督デビューを果たしていただろう。
そうなっていたら、僕の監督人生はどうなっていたか。
もしかしたら、商業映画のフィールドで、次々と作品を監督していたかもしれない。
しかし、今のような『眠り姫』は生まれなかっただろうし、『DUBHOUSE』は無いだろう。
考えても仕方ないことだが、ぼんやり妄想してしまう。
これもある種の弔い、なのだろうか。




2025年06月07日


アテネで『ヴェンダースの友人』を観た。
均さんは、まだ若く、40代前半だろうか。
交差点の向こうから、カメラへ向かって横断歩道を駆けてくる姿は、妖精のようだった。
後のシーン、友人1・高岡氏との会話で天使の話題になるので、天使と評した方が良いのだろうが。

僕が均さんと出会ったのは、この撮影より後だ。
『のんきな姉さん』の試写後、まくし立てて(「お前の映画は誰にも似ていない」と)去って行った後、越川氏が「日本で一番映画を観ているかもしれないヴェンダースの友人」と説明してくれて、まだその時はこの作品を知らなかったので、?となった。
それから、断続的なつきあいが20年ほど。
今は、うちの近所に住んでいる。
だが、会うことは滅多にない。

映画はやはり、人間が見えるとき、心を揺さぶる。
20年近く経って、久々に観て、しみじみと良かった。
この作品が、井土の最良の映画ではないだろうか?
本人にもそれを伝えて、苦笑いされ、アテネを出た。

プロか素人かという問いがあった。
それがまだ問えるほどに、世界は清らかだった。
何者にもならない純粋が、ぎりぎり残されていた。
妖精は老境で何を思っているだろう。
僕も歳を取り、変わってしまった世界に戸惑うばかりだ。

いけすかない六本木ヒルズに来て、今、これを記している。
これから、「マシン・ラブ」の展示を見る。












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