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今日、ラピュタ阿佐ヶ谷で、『ラマン』を観てきた。 観たのは、完成公開された当時以来だと思う。 語弊を恐れず記すが、自分の力量不足を悔いるとともに、様々な感慨も覚えた。 拙い脚本で苦労をかけた廣木隆一監督、スタッフ・キャストのみなさんに、改めて感謝したい。 特に、本当の華子と大杉連が本屋で遭遇して交わす会話から、4人が海へ花火を観に行く流れ。 あそこから偽りの華子のモノローグが始まる意図を、ホンの通りに描いてもらえていて嬉しかった。
さて、この上映は、プロデューサー成田尚哉特集のプログラムだ。 成田さんは、僕が映画監督になるきっかけを作ってくれた恩人であり、たぶん最も昔から接点のある映画プロデューサーだった。 最初にお会いしたのは大学生の頃だが、そこまで遡ると話が長くなるので、はしょる。 おそらく、成田さんにとって七里圭という存在がはっきり認識されたのは、廣木監督『MIDORI』の助監督のときだろう。
のちに窪塚洋介となるモデルのヨースケさん演じる自主映画少年が、みどりに送り付ける自殺予告ビデオ。 つまり劇中映画をセカンド助監督の仕事として、主役の嶋田博子さんを撮影して作ったのだが(実は本編ではほとんど映っていない)、その映像を見た成田さんが、「七里、何か企画を持ってこい」と言ってくれたのが始まりだ。 僕は、山本直樹さんの漫画2冊(光文社刊『君といつまでも』と『夢で逢いましょう』)を持って行き、これに入っている『眠り姫』か『のんきな姉さん』がやりたいと言ったのだ。 1996年のことだった。
Vシネ全盛の当時、エロものとして成立しやすいという理由で企画が『のんきな姉さん』に絞られてから、待つこと三年。 たびたび呼び出されるが進捗はなく、その間に僕はチーフ助監督に昇格したり、監督補を経験したり。 それなりにキャリアを重ねつつ、TVの深夜ドラマ(『七瀬ふたたび』)やVシネ(『独房X』)を監督するようになっていた。
はっきり言えば、もう『のんきな姉さん』のことは忘れかけていた。 そんなある日、成田さんに突然呼び出されて、脚本執筆のゴーサインが出されたのだ。 1999年の夏だった。 えっと思うほど低予算ではあれ、映画製作の企画だった。 劇場公開の映画は、まだフィルムで撮る時代だ。 条件はかなり厳しいが、やってやろうと思った。
悶え苦しみながらも秋には初稿を書き上げ、成田さんはとても気に入ってくれたのだが、思いがけない出来事が起きた。 詳細は記さないが、それゆえに他にプロデューサーを探すことになった。 映画製作は継続できたが、成田さんは製作から離れた。 そして、成田さんが誉めてくれたホンは結果的に捨てることになり、新らたに全く違うホンを同じ原作から書き直すという事態に至る。 それが、今ある『のんきな姉さん』だ。
この『のんき』の製作過程は、まさに地獄だった。 最初の制作は、撮影途上で頓挫した。 (そのとき撮ったショットを、後に新たに構成し直した作品が、短編『夢で逢えたら』だ) スタッフ・キャストは総入替えとなり、仕切り直して初顔合わせの面々と苦労して撮り上げたフィルムは、仕上げ(ポスプロ)中に出資の雲行きが怪しくなる。 すんなりラボで初号を迎えるというわけにはいかなくなった。 一時はお蔵入りになりかけて、ようやく劇場公開できることになる2004年までに、四年の歳月が流れる。 その間に僕は、ほとほと映画業界に嫌気が差してしまった。
しかし、食うや食わずの窮状に手を差し伸べてくれたのも、映画業界の人々だった。 成田さんは、少しは責任を感じてくれていたのかもしれない。 初監督した作品がそんな憂き目に合いかけていた頃、「七里、廣木のホンでも書くか」と依頼してくれたのが、『L’amantラマン』の脚本仕事だった。 2002年の暮れか、翌年の年明けだった。 それは、成田さんがついに自分の会社(アルチンボルド)を設立するための、立ち上げ企画でもあった。
初稿を上げてから1年ほど経ってクランクインも決まり、現場に向けてホン直しに入ったのは、ちょうどテアトル新宿『のんき』公開初日(2004年1月10日)が明けてから。 締切までの1週間、超特急で直しを上げたのは、もうその頃には自力で『眠り姫』の撮影に取り掛かっていたからだと思う。 『L’amantラマン』は、初号はもちろん観たはずだが、劇場公開時(2005年2月5日)の記憶がほとんどない。 それもたぶん、ふた冬かかった『眠り姫』の自主製作にかかり切りになっていたからだろう。
インディペンデントに舵を切った僕は、その年の5月には『眠り姫』を生演奏で上映するのだが、成田さんはその自主上映会も観に来てくれた。 「帰り道、いろんなことを考えたよ」と言われたが、どんなことを考えたのかは聞かなかったと思う。 僕は、意地を張っていたのかもしれない。
それから5年後の2010年、成田さんともう一度、監督作の企画を二つ取り組むのだが、そのどちらも別の理由でうまく行かなかった。 決定的だったのは、翌春に起きた大震災だ。 あの混乱期に、商業映画を企画するという道から、僕の歩みは大きく外れていく。 僕は『DUBHOUSE』でエクスペリメンタルの作家と認識され、「音から作る映画」プロジェクトに突入する。 そして、いわゆる業界的な映画製作から遠く離れた辺境で、映画と取り組み、今に至る。
とは言え、その後も成田さんとの付き合いは続いた。 たまになんとなく、酒をご馳走になっていた。 最後に話したのは、亡くなる年の初夏、6、7月頃だったか。 久々に電話をしたら、余命3ヶ月を宣告されたと打ち明けられた。 奇しくも電話の用件は、梶原阿貴さんの連絡先を聞くことだった。
人生にもしもはありえないが、もし『のんきな姉さん』を成田さんプロデュースのまま、監督することが出来ていたら。 初めに書いた脚本通りに、耽美でエロティックなファンタジーとして姉弟の近親相姦を描いた作品で、僕は映画監督デビューを果たしていただろう。 そうなっていたら、僕の監督人生はどうなっていたか。 もしかしたら、商業映画のフィールドで、次々と作品を監督していたかもしれない。 しかし、今のような『眠り姫』は生まれなかっただろうし、『DUBHOUSE』は無いだろう。 考えても仕方ないことだが、ぼんやり妄想してしまう。 これもある種の弔い、なのだろうか。
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