ダイアリー






2017年10月02日


20代で死ぬだろうと思っていました。
それぐらいノーフューチャーだったし、安酒をかっ食らう量半端なかったし、煙草もショッポをきっちり一日二箱喫ってた。
でも、結局、普通に30代を迎えて、煙草はいつの間にか喫わなくなり、酒は一度にそんなに呑めなくなった。
で、40過ぎてもあんまり生活変わらず落ち着けず、ずるずる生きているうちに、今月とうとう50になります。
半世紀も人間やってきて、いったい何やってたんだという感じ。
気持ちはぐらぐら、ため息つくしかない状況から一向に抜け出せないのだけど、
なんとなく忙しなく、目前のやらねばならない作業に追われることで、日々をやり過ごしている。
なんだかなあと思う。
そんな状態だからなのか、ああこれは見に行こう、行き忘れないようにしないとと、初日に写美へ行きました。

20代のある時期、長島有里枝さんは、僕のアイドルでした。
urbanart#2 展での家族写真の衝撃。
ヌードだからというのと同じくらい、あの家族の表情、カメラを見る穏やかさが異様で。
目に焼きついて、頭から離れなくなった。
それ以前から、写真は人並みに好きで、まあまあ見ていました。
ラリー・クラーク、ナン・ゴールディン、ダイアン・アーバス、牛腸茂雄。
簡単には表れない、触れられない、人の一瞬。
それが永遠に静止してしまうという、写真の摩訶不思議。
ガールズフォトの走りのように言われているけど、長島有里枝は登場から、女の子とか女性とか、そういうフィルターへの違和感を全身で表現していた。
自分との距離、周りの世界との距離、親密と疎外と。
90年代前半、20代半ばまでの僕は、ピンク映画の周辺で助監督をしていたから、エロ業界も近いところにあり、性の資本主義というか、男性に消費される裸という価値観に疲弊していた。
だから、名前をローマ字で冠した写真集の最後の一枚、
深夜の住宅街で自転車にまたがり、キッと振り返る裸の遠景ショットは、『インディアン・ランナー』 で走り去る少年のように、胸がすく思いだった。
でも、とどのつまり、アイドルだったわけで。
一時ものすごく好きになって、遠くから見つめていたけれど、丹念にその後も追いかけたわけでもなく。
『not six』 も本屋で立ち読みだった(はず?だ)し、最近は、ああ小説も書いたのかと知っても読んではいなかった。
まあ、その程度。

で、「ひとつまみの皮肉と、愛を少々」。
タイトルも気に入って、夜の用事の前に恵比寿に立ち寄ったのでした。
写真展で見せられるプロジェクションに、感心したことあまりないのだけれど、この展示のはとても良かった。
変わった趣向があるわけでもない。
ただシンプルに、スライドのように、等間隔で無機質に切り替わり、投影され続ける写真。
デビューから10年、20年を超える(のかな?)作品群が、順番に。
見覚えのある初期の作品、不愉快や情愛や空疎な気持ちが漂いだすようなセルフ・ヌードから、友人たち、愛する男、妊娠、家族関係、息子とのスナップ、最近の生活日常へ。
だんだん齢を重ねていく彼女の顔が、裸が時を刻み、人生の流れ、歳月を感じさせて。
30分くらいだったろうか、立ち尽くした。
月並みな言葉で恥ずかしいのですが、感動しました。




2017年09月24日


とてつもない、プレッシャーです。
何がって、山形の審査員を務めることになってしまったのです。
依頼を受けたときは、正直、きょとんでした。
は?という感じ。
そもそもは、『アナザサイド サロメの娘 remix』 を上映したいという連絡から。
それだって、え?と思ったのですが、まあ、映画にジャンルという垣根は無用と自負する者としては、望むところ。
光栄ですとお受けしたのですが、その後で、「実は…」 と審査員のオファーを切り出されたときは、さすがに 「ちょっと考えさせてもらえませんか」 と保留するしかなかった。
ビビってしまいました。

何と言っても、山形のインターナショナル・コンペティションです。
これまで、ペドロもワン・ビンもアピチャポンもここから日本に紹介されたのだし、ワイズマンやグスマンが常連の、誰もが認める日本で最も国際的に知られた映画祭のメイン部門。
それを、僕のようなチンピラが審査していいわけない!
先日の記者会見でも話したように、当初は 「身に余る」 と思い、お断りした方がいいのではないか悩みました。
が、僕の現在の映画観、作品に向き合う姿勢は、この映画祭で話題になった数々の秀作に刺激を受けて、また、山形ゆかりの歴史的な傑作群を観ることで育まれたのは間違いない。
こんなありえない、貴重な機会に背を向けたら、逆に失礼。
恩知らずになるだろうと考え直し、受けて立つことにしました。

でも、大変。
考えるだけで吐きそうになります。
だって、ロバート・フラハティ賞を選ぶんですよ。
ドキュメンタリーの父の名を冠する賞を。
どれだけ僕は、ドキュメンタリーについて考えてきたのだろう。
いい歳して、全く薄っぺらで、半端なままの自分を悔やむとともに、
この道を突き進んだ先達、偉大な映画作家たちの横顔が頭をよぎります。
その中には当然、佐藤真さんもいるわけで。
もちろん、縁もゆかりも言葉を交わしたことすらないけれど、まさに映画に供した彼の人生を考えないわけにはいかない。
佐藤さんが映画を撮り始める前に必ず観直したという、フラハティの 『北極のナヌーク』。
温かい友人がDVDをプレゼントしてくれたので、襟を正して観直しました。
四十代も、もう末のオヤジになってしまいましたが、山形に滞在する一週間、僕は一介の映画青年に戻ろうと思います。
何も知らない、わからない。
こんな大役、身に余る、足らず者ですが、でも、全力で向き合います。
毎日へとへとになって、夜は香味庵で呑んだくれているでしょう。
山形に訪れる方、もし見かけたら声をかけて下さい。
重圧に押し潰されそうだけど、がんばります。
どうか応援して下さい!




2017年09月05日


『戦場のメリークリスマス』 を、5巻目だけ観る機会がありました。
巻というのは、フィルム映写の場合、映画は15~20分程度で巻分けされていて。
その巻を2台の映写機で切り替え、掛け替えながら上映するのです。
そう言えばデジタルシネマになって以来、画面の右上に出るパンチ(切り替えの合図)を見る機会もなくなりましたね。
さて、なんでそんな特殊な上映があったかというと、それがフィルム保存協会やラボなどフィルム関連各社が共同開催しているワークショップだったからです。
ワークショップにはいろんなコースがあり、その一つに、傷の入ったフィルム作品をデジタルリマスターで修復(パラ消し)するのを体験しよう!というのがあって。
その素材が、なんと 『戦メリ』!!
というわけで、受講生に向けての参考試写があったのです。
ではその5巻目とは、どんな場面だったかというと。
ビートたけしのあの有名な 「メリークリスマス、ミスターローレンス」 を酔って言うシーンから、デヴィッド・ボーイが坂本龍一を抱擁して頬にキスするクライマックスまで。
まさに作品の顔といえる重要なシーンが詰まった巻を、傷だらけの褪色したプリントで上映して、その後に、美しくリマスターされたデジタル版をDCPで見比べたのですが。
いやあ、素晴らしかった!
何がって、フィルム上映の 『戦メリ』 です。
まだ若いたけしの、狡猾そうだが憎めない何とも言えない独特な表情、ボーイの気品、思い詰めた坂本龍一の狂気。
収容所のグラウンドに全員集合させられる捕虜たちを、これぞ移動ショットという流麗さでとらえるカメラワーク。
どのカット一つとってもスキがなく。
ああ、これが映画だ、映画だよという感動に満ち溢れていて。
色あせてるとか傷が目立つとか、そんなの全く関係ない。
映画が迫ってくる圧にたじろぎ、胸をわしづかみにされました。
フィルムと見比べると、悲しいかなデジタルの薄っぺらさは、うーん否定できない。
「何なんでしょうね、この違いは」
と、ラボの方々からも打上げの酒席で本音が漏れました。
世に喧伝されている、デジタルリマスターで甦った云々の旧作名作たち。
あれは、すり替えられた偽物かもしれない。
イミテーションに置き換え、与えられて、本物のすごさを奪われていく過程なのかも。
僕がそのワークショップに参加したのは、「フィルムレコーディングの実例に、1分程度のデジタル映像を素材提供しませんか」と誘っていただき。
そんなありがたい機会をいただけるなら超短編を新作しますと、まだ発表していなかった 『To the light』 シリーズのために撮影した映像を、編集して。
デジタルから35㎜フィルムのネガを作り、プリントを焼いていただいたのです。
で、そのプリントが 『戦メリ』 と一緒に上映されたのも、個人的に感慨深く。
『戦メリ』 を観た高校生の時分、僕の8㎜を褒めてくれたのが大島渚監督でした。
あれが間違いの始まりで、今こんな人生を送っているのですが、
いつかもう一度、自分の作った映画を観てもらいたいとひそかに思っていた。
それは叶わぬままでしたが、ワークショップの試写とは言え、
偶然にも同じスクリーンに作品をかけていただいたのは、ちょいとグッときた。

その催しから帰宅したら、ポストに本が届いていた。
松本圭二という、知る人ぞ知る、才気爆発の詩人がおりまして。
彼の初めての選集に挟まる栞に、寄稿させてもらったのです。
それは、僕がいかに松本圭二のファンであるかということを、ただ書きなぐっただけの駄文なのですが、
でも、自分としてはこの夏の大仕事だったわけで。
製本されて送られてきた本を手にする実感、感無量。
フィルムとデジタルの違いも、やっぱりこういうことなのかも。
松本さんは詩人なのですが、九州にあるF市総合図書館というフィルムの収集をしている施設で、アーキビストとしても孤軍奮闘されていて。
昨年の夏、沖島さんの残した作品群をどこに管理していただくかという会合で、初めてお目にかかったのでした。
その沖島監督 『一万年後…。』 が、フィルムセンターの夏恒例 「逝ける映画人たち」 特集で上映されたのは、本が届いた翌日でした。
本当は35㎜プリントにフィルムレコーディングしてもらいたかったけど、DCPとはいえ国立の機関が収蔵に動いてくれたのはあっぱれ。
これで、沖島さんのジョーク 「いずれ、小津、溝口、沖島の時代が来る」 が、実現へまた一歩近づいた 笑
宇波氏や春日氏らと祝杯を上げ、献杯しました。
で、吞んでしまって少し遅刻したのですが、『月夜の釜合戦』 を試写で観ました。
大阪・釜ヶ崎で16㎜撮影を敢行した力作。
数年前から苦労して製作している状況は、風の便りに耳にしていた。
完成おめでとう、応援しますね。
夏の終わり、フィルムにまつわる出来事が、いろいろ重なった数日間でした。





2017年08月17日


もう先月のことですが、海へ行きました。
泳ぎに行ったとかではなく、ただ夏の海辺に触れたくて。
三浦の方へ、日帰りで。
とてもとても暑い日だった。
最初は、サンダル脱いで、波に足さらしたりもしたのだけど、
すぐに虚しくなって、日陰へ。
海の家のベンチに座り、ぬるくなった缶ビール片手に、
水着の若者たちを眺めていました。
この子たちの年頃、僕はほとんどこんな真っ当な夏の過ごし方をしなかった。
あの頃はそういう楽しみに、むしろ積極的に背を向けてしまっていたけれど、
今思えば、なんと、もったいない。
若いうちは若者同士、はしゃいだり、当たり前に季節を楽しむもんだよなと、
つくづく思いながら、酔いました。
そのとき、頭をもたげていたことが、もう一つありました。
終わりについて。
突然、終わってしまうこと。
まだ続く、むしろこれからだと思っていたものが、強制終了する、される。
昏々と眠りにつく男のことを思いながら、考えていました。
海に行きたくなったのも、その男が撮ったある映画を見て、
夏の水着の娘たちを無性に見たくなって。
僕は彼とは特に親しいわけではなかったけれど、折々の思い出がないわけでもなく、
倒れた前々日も、劇場で立ち話をして、じゃあと別れた。
あれが最後になるなんて。
でも、どんなにセンチメンタルであろうが、生者とは勝手なもので、
酔いながら、ビキニのお尻や、ブラのすきまの白い肌を目で追っている。
そうやって生きて、老いて、あるいは老いずに、死んでいく。
ああ、あの映画もそういう映画だったなと、
光眩しいビーチを見ながら思いました。
まだそのとき、彼の心臓は動いてた。
亡くなったと連絡を受けたのは、海から帰った翌朝でした。

それから僕は、やさしさについて考え始めました。
やさしさって何だろう。
命の問題を抱えた友人が、もう一人いて。
それを知らされ、ほっとくわけにはいかず。
会って、長いこと呑みながら話した。
でも話してるうちに、僕が彼女に伝えようとしたことが、いかに余計なことであるか、
いかに何も分かっていなかったかを思い知らされ、メタメタになってしまった。
で、彼の映画の話になって。
彼のすべての映画に通じて感じることは、やさしさだと。
彼女が教えてくれた。
自分に足りないものは、それだと思った。
そう思い始めたら、また酒が止まらなくなり。
過去を振り返り、どうにも堪らなくなり。
やさしくない、やさしさが分からない、本当にダメだった。
潰れるまで吞むしかなく。
弱い。
弱さに耽溺していけば、いつか反転できるとでも思ったのか。

しかし、いい通夜でした。
遺影が底抜けに明るく、白い歯まで見せて、まるで喜劇映画のようで。
ハートの形の花輪に囲まれていて。
参列者も本当にたくさんいて、人徳を感じました。
終わっても、何十人もが去りがたく、駐車場にたむろって。
酒席に移れば、にぎやかで歯に衣着せぬ。
彼がけっこうな酒乱だったとか、亡くなってから知ることも多く。
関係ない恋バナまで飛び交い、夜更けまで。
そして、翌日も告別式が終わってから吞み続けた。
いや、みんなよく呑むよ、こんなんじゃ身が持たない。
とか言いながら、翌々日も、その翌日も、連日。
葬儀が終わっても彼のことを話す、聞く機会は続き。
これも供養だと思いつつ、一方で、別の人のことも考えていた。

肯定することなのだ。
そう気づいた。
他者にできることは、それくらいなのかも。
でも、頭で分かっても、それをさらりと、
普段からできるのは、途方もないことだろう。
初日に観たあの映画を、楽日にもう一度観に行きました。
本当に、いい映画だった。
最初に観たときは、ちゃんと観れていなかった。
だから、打上げの席で彼に伝えた感想は、全然当たってなかった。
なんか変だなあと思い、
今までのような最善な選択、最良の仕事に徹することを止めたんだなと。
お前、変わろうとしているんだなと。
そんなことを言ってしまって、彼をがっかりさせたかもしれない。
二度観てようやく、カットの連なりが頭に入ってきて、
全てとは言わないが、ほとんどの音が聞こえた。
これはすごいよ、完璧、かもしれない。
夏の死と生、性によりそい、運命を描いたんだ。
あついよ。
胸に刺さった。
最高傑作を残して、彼は逝ってしまったんだな。

「泳ぎにでも行くか」。
浮かない顔の僕に、助監督時代の元上司が理由も聞かずに、そう言ってくれた。
そんなわけで、この夏二度目の海へ、数日前に行ってきました。
やはり、三浦の方。
知る人ぞ知る、穴場の浜辺があると教えられ、連れられて。
ガラガラの海水浴場を想像してたんだけど、さすがに盆休みの真最中。
子供連れのファミリーでけっこう賑わっていて。
それでも気分はぐんぐん盛り上がり、
海パンに着替えて、波打ち際へ駆けていった。
海で泳ぐなんて、何年ぶりだろう。
遠浅の岩場で水中に顔をつけると、
ジオラマのような海底に、小魚がけっこう群れていて。
東京近郊で、こんな透明度の高い海もあるんだなあと。
素直に感動したのですが、一番気持ちよかったのは、
海水が自然と体を浮かせてくれること。
仰向けになって、空を見上げて、プカプカとただ浮かんでいた。
漂い、流されていくことの自由さよ。
目の前をゆったり通過していく雲に、心奪われ、ぼんやりしてたら、
いつのまにか、沖の方まで流されていて。
ちょっと怖かったけど、泳いで戻って、また仰向けに浮かんで。
またぼんやりと、空を眺めることを続けた。
漂う僕は、漂う雲と近づき、離れていく。
こうやって、生きている限り流されていき、いつかは別れる。
あのときは帰ってこない。
もう会えないかもしれない。
でも、それでいいんじゃないか。
相手の自由を尊重すること。
自由であることの素晴らしさ、せつなさ、きびしさ。

ほんのひととき、すがすがしい気持ちになれた。
ありがとう、夏の思い出です。
で、その夜うれしくて元上司と深酒してしまったのだけれど。
すぐに、つらい日常が始まったのだけれど。
Life is run !




2017年07月03日


昨日は沖島監督の命日でした。
昼日中の一番暑い時分に、去年と同じく、宇波拓氏とお墓参りへ行きました。
お花とタバコをお供えして、手を合わせて、ずいぶん長いこと目をつぶっていたのは、
この何年か、沖島さんにまつわる様々な出来事が、
記憶を手繰り寄せる目印のように、自分の大切な思い出と結びついてしまったから。

去年の命日から始まった、ポレポレ東中野での回顧上映。
1日1作、奇しくも全7作を一週間で観直して、沖島勲という人生を振り返ったあの頃。
10年目の『眠り姫』をサラウンドリマスターで公開する準備と、さらにその先、今年2月VACANT上演に向けてのスタートを切り、慌ただしさに麻痺してしまい一番大切なことを見失い始めていた。
その前年の7月2日、心肺停止の寸前に間に合って、
宇波氏や山川宗則氏と立ち尽くした。
ちょうどその頃、ラピュタ阿佐ヶ谷で1週1作の全作上映が続いていて、
3週前に『出張』のアフタートークがあり、登壇前に電話で話したのが最後だった。
もつ焼き屋で一杯やり、ほろ酔いで電話してしまった。
その前年2014年の夏は、沖島さんが癌だという重苦しさ、せつなさと過ごした。
あの夏の前後、春に『映画としての音楽』のライブを上演し、秋にその映画版を上映し。
「音から作る映画」、『サロメの娘』というヤバい企てを、加速させていこうと決意を胸に秘めていた。
でも、準備段階はもっと前から始まっていて、2013年の秋。
講座の0回を催したし、『DUBHOUSE』という分水嶺になる作品が、クロアチアの映画祭でグランプリをもらい、一つの区切りを迎えていた。
賞をもらって帰国したら、真っ先に電話をいただいたのも沖島さんだった。
「おめでとう、七里もこれで、安泰だな」と、独特のユーモアで笑わせてくれた。
『Who is that man?』が公開したのはそれから間もなくで、その秋はイベントなどでよく御一緒し、よく深酒して、深夜のタクシーを同乗した。
そのロケがあったのは、前年2012年の秋。
宇波氏から連絡があり、全国酒飲み音頭「酒が飲めるぞ♪」を歌えるようにしてきてくれと言われ、喜び勇んで、現場に行った。
あの現場の翌月に、僕の初めての特集上映が新宿ケイズシネマであったのだ…。

もう、この辺りでやめとこう。
200日どころか、4年、5年も遡ってしまった。
僕はこのところ、大切なものを失い続けている。
失くしたものは、もう戻らない。
映画ヤメトケ。
沖島さんの教えに背いて、まだ映画を続けている。




2017年06月07日


いつのまにか、200日が過ぎていた。
別に特別な日からではない。
去年の11月中頃、八王子まで中央線に乗ったある日のこと。
車窓から差し込む秋の光が流れていくさまがとても美しくて、
こんな光景を『眠り姫』のときも撮ったなあと思い出しながら、
ふと、こういう経験をしながら自分はあと何日生きるのだろうと考えてしまったのだ。
何年とか、何歳までというと大雑把で漠然としているが、何日だとけっこう具体的。
日記という行為が定着したのも、だからかなと納得しつつ、
試しに1000日まで、その日から数えてみようかと思い立ったのである。
で、あっというまに200日が経った。
あっという間だったが、振り返る間もないほど、次から次へいろいろあった。
あまりに日々が強烈で、一時はすっかり数えているのを忘れていた。
ようやく思い出して、再び数え始め、間もなくのこと、
演出家の危口さんが亡くなった。
『眠り姫』のアフタートークに来ていただき、初めてじっくり話したのが、
ちょうど、数え始めたあの日の翌々日。
その数日後にステージ4と告知されたと知らされ、それから100日と少しだった。

200日もあれば、いろいろなことが起きる。
すでに多くを忘れ始めている。
特に、そのときどう思い、感じたかなど、もう遠い。
うず高く積み重なる地層の奥底に埋もれてしまっていることを、
掘り起こせるうちに書き留めておこうと思う。
わざわざ公にすることでもないけれど、このページをおざなりにしてきたのにも、
いささかの口惜しさあり。
まあ、いつまで続くか、どれだけ書けるか分からないけれど。

最近、20年来の友人と呑んだ。
ときどき会う仲だが、最近ちょっと、彼は考え方が変わったような気がして。
そのことを指摘したら、逆に、「変わったのは七里さんの方じゃないですか?」と言われた。
追い詰められているかもしれないけど、状況をネガティブに解釈し過ぎだと。
でも昔から、僕はポジティブではなかったし、そんなにネガティブ思考が進んだとも思えないが、
確かに、苦難をストレートに吐露するだけでなく、自虐ネタにするくらいの余裕はあったような気もする。
やっぱり、彼の方が変わったように思える。
が、忠告は素直に受け止めることにしよう。
翌日、彼からメールが来た。
10年ほど前、写真家の中野正貴さんに
「四十代がんばらないと、五十代はないよ」と発破をかけられたことがある。
その後それが、僕の座右の銘になったという話をしたのを、彼は覚えていて、
「七里さんほど頑張っていて、五十代なかったら、嘘ですよ」
とメールに書いてくれた。
そうだよな、本当にがんばってきた。
だから、自信をもって、しゃんと生きないと。












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