ダイアリー






2019年12月22日


UPLINK吉祥寺での新作短編&日替わり特集上映、
先日、盛況のうちに終わることができました。
ご来場いただいたお客さま、並びに関係者のみなさまに、
改めて感謝を申し上げます。
ありがとうございました、お疲れさまでした。

最終日は『Necktie』上映後に、一人で挨拶に立ち。
次が『眠り姫』だったので、
この13年間の上映のこと、振り返ってみようとしたのですが。
あんまり、うまく話せなかったな。

ぼんやりした「いやな感じ」が、
制作した動機のひとつだったという、
今までもよく話してきたことは、言えたのですが。
13年の間に、ずいぶん映画の置かれる環境も変わり、
例えば、ネットで映画を観ることが、こんなに当たり前になるなんて、
初公開の当時は、当然ですが、想像もつかなかったということ。
その変化と、『眠り姫』について考えようかと、
話してみようと思ったのでした。

映画とは、スクリーンに投影されて、
それを、じっと暗闇に身を沈めて眺めるもの…
そういう前提が、意識さえされぬほどに、
まだ当然の認識だったころに、作られた映画だったから。
もちろん、レンタル・ビデオやセル・ビデオは、
今とは考えられないくらい、隆盛で繁盛していて。
だからこそ、天邪鬼としては、ソフト化――
つまりDVD、そしてBDにすることに、
ひたすら抵抗して、上映を続けた時期もあり。
それゆえに上映が続いた、とも言える、頃もあった。

だが、それもひと昔前のこと。
今や映画は、ちまたに膨大にあふれる映像の一種。
動画と呼ばれて、データ・ファイルでやり取りされるもの。
そんな時代に、『眠り姫』は、姿をほぼ変えず、生き延びてしまった。
しかも、おそろしくナイーブな作品であることを、
あの晩、久々にスクリーンで眺めながら、改めて思った。

体験が、極めて近似に、イメージとなっている。
冬場の斜光の、乾いた夕暮れの季節、
ふと空を見上げたとき、あるいは淡い陽だまりに、同じ光景を見る。
そんな状況や記憶へ、観る人を誘導する様々な趣向は、
映画館という装置がなくても、はたして成立するのだろうか?
配信された『眠り姫』が、携帯タブレットで見られる様子を思い浮かべて、
ぞっとしてしまったのでした。

けれど、一昨年、
ニューヨークで初めての海外上映があったことも思い起こされ。
その場に立ち会うことは出来なかったので、
実際には分からないのですが。
声の映画が字幕で鑑賞されることで、
伝わり方は、かなり違ったはずだし、
何か大切なことが決定的に伝わらなかったと思う。
しかし、紹介してもらい、良かった。

作品の受け取られ方が変質してしまうのを、ある程度覚悟しないと、
これからの時代に、映画は残っていかないかもしれないなと。
そんなことも思った、楽日の上映でした。




2019年12月13日


今春のことですが。
急に声が出なくなってしまい。
3ヶ月近く治らず、苦労しました。
今も疲れると、ちょいと嗄れ声になったり。
完治したとは言えないかもですが、まあ、もう大丈夫。
でも、全く声が出なかった一時期は、本当に大変だったな。
笑えるほど。

ある映画のアフター・トークに、ささやき声で登壇して。
みなさん、耳をそばだて聞いてくれる上に、
なに話しても、声だけで笑いがとれて。
四月だったので、大学での初めての講師業も始まり。
最初の授業の第一声が、マイクを口につけて絞り出すように、
「せんせいは、こえ、が、で、ま、せ、ん、、、」。
学生たちには、チョー受けました。

咽頭炎と診断されたのですが、原因はよく分かりません。
ちょうど 『Necktie』 の現場が終わった直後だったので、
たぶん、過労&呑み過ぎ、かな。

名古屋での決定版「サロメの娘/アクースモニウム」公演も
『Necktie』 クランクイン直前にあって、制作準備が丸ダブり。
毎日、往復2時間半以上かけて、横浜中華街のスタッフルーム通い。
ロケハンして、交渉して、四方山の打合せ。
合間に本読み、リハーサルしながら、
手作りの映画製作なので、美術制作から衣装探しまで。
呑んで夜遅くに帰宅してから、朝まで「サロメの娘」の映像編集。
まあ、よく身体が持ったというか、持たなかったというか。

持たなかったのは、懐の方もかなりなもんでして。
もともと与えられた予算が少なすぎて、持ち出しが倍近くになり。
ロケが全撮了して、現場終わりの打上げで、チビチビだらだら朝まで呑んで。
ああ、明日からどうやって生活していこうかしら、、、
と、ぼんやり思い悩んでいたのもあったのかな。
翌日、起きたら、声が出なくなっていたのでした。

まあ、そんな大変な状況でしたが、現場は楽しかったな。
久しぶりに、台詞や状況説明(ト書き)が書いてある――
つまり、シナリオがあって。
登場人物はどう思ってるんだろう、何するの?
ってなことを考える、演出するのが、やはり僕のホーム・グランドだと。
そこ育ちなんだよなあ、本当は…と、つくづく思いました。

しかし、その後も夏の終わりに、とんでもない舞台公演があったり、
並行して、今も、とある怪物と関わっていたり。
他流試合、アウェーな戦いは、来年も続きそうで。
でも、求められているうちが、花。
しぼんで、枯れる日はいつか来るのだろうから、
それまで精一杯、頑張ろうと思うのでした。




2019年11月20日


昨夜は、久々にうろたえた。
いやはや、学びの場だった。

デジタル技術に乗っ取られたシネマは、もう(かつての)映画の形ではいられないのでは?
そんな問題意識から始まり、ここ数年はことあるごとに、
映画は一万年前からあったのではないか、
イメージを操る表現、見世物は、もっと野蛮でヤバいものだったはずだ、
そう繰り返し、鬼の首を取ったように発言してきたが。
実際に目の前で、それをやすやすと実現したイメージ、
表現が生成する場を見せつけられて、言葉が出なかった。

「現前するイメージ」、「生きている映画」、、、
苦し紛れに絞り出し、応じる感想は拙く、
事態の深度に、自らの認識にすらおよばない。
そして、追い打ちをかけるように、彼から問い返される。
「こういう映画はどうですかね?」

この数年の思考と実践を、経てきた後のはずなのに。
はたと、考え込んでしまう。
果たして、これを、映画、だと、簡単に言えるのだろうか?
優れた映画表現とは、おしなべて、現前性批判だったではないか。

例えば、ブレッソンのモデル論、ゴダールのソニマージュのように。
自意識から限りなく遠く離れて、突き抜けて、
しかしそこに在るとしか言いようがなく、心ふるえる
美しさ、静けさ、凶暴さ、軽快さ、切実さ。
思えば、「清掃する女」の達成だって、
現前する者たちの、エゴとの壮絶な戦いだったではないか。

またしても、手に負えそうにない難問を、突き付けられた感がある。
あえて、「吉増剛造問題」 と呼ぶことにした。
させていただきます。
いや、困ったな。
やっと肩の荷が下りたかと思ったのに。
普通の映画に戻りたいな。





2019年11月04日


原稿料代わりに送られてきた「映画芸術」。
パラパラと、まず依頼の「私はこれで決めました」特集を。
知己の方々がどんなことを書いているかを読み、自分のを読み返して。
つくづく、生真面目だなと恥じ入った。
安藤尋さんは、さすが上手い。
読ませる文章だなあと感心、恐れ入ったし。
神代さんのも、なるほどなと。
勝手な発見ではあるが、収穫あった。
沖島さんのは、前にもどこかで読んだか聞いたかした話だからか。
いつものニヤリとさせられる読後感は足りなかったが、さすが沖島調の語りにゆるぎはない。
他にも、いろいろ。
そんな先達、先輩に比するのもおこがましいが。
私の駄文は、何とも肩に力が入り過ぎているというか、愚直過ぎるというか。
省みもしつつ、しかし、仕方ないとも思う。
必死にやるしかないのだ、いつものことだが。
これは書かないと、と思ったし。
「わたしのこと書くな!」と天上から、メールは来ないが飛び蹴りくらいは食らうかも。




2019年09月30日


昨日はキノコヤ、聖蹟桜ヶ丘からの帰りの電車で
具合の悪さが限界に達してしまい。
わざわざ観に来てくれた均さんが、車中でずーっと話しかけてくるのを、
我慢しきれず、遮ってしまった。
とにかく、耳元で言葉が聞こえるだけでも耐えられないくらいだった。
一晩寝て復調してきたが、体力の減退が著しい。
酒にめっぽう弱くなってきた。
昨日も、生ビール3、4杯しか飲んでいない。
数年前ではありえない。
うーん。

3週間ほど前、公演のバラシで運搬に使ったレンタカーの窓ガラスに、
やつれたオジサンの顔が映っているのが、自分だと気づいて驚いた。
命を削って、制作、創作をしている実感はあるが、
実際、この5年ほどで相当老けた。
怒涛の作品制作に命を吸い取られた。
40代の、歳の割には若々しかった頃には、もう戻れないな。
加齢のさみしさを感じる。




2019年09月24日


公演が終わっても、全く休めない。
やらねばならないことが山積みで、次々と。
そのうち三つが今週に。
一つは、今朝ようやく片付いた。
書き終えた、ボランティアの原稿。
依頼のプライスで、労力の差はつけられない。
これは、書かねばならないと思った。
から、しょうがない。
で、次もある。
来週末までに、また原稿。
何とかしないと。
その前に、公演の会計報告。
さらに、明後日は、二年前の公演の会計調査だ。
いじめかよ。




2019年08月26日


とにかくつらい。
でも、頑張るしかない。
明日は小屋入り前日。
もう時間がない。
いや、時間はあるのだ。
ギリギリまで、頑張る。
それだけだ。




2019年08月18日


必死とは必ず死ぬと書くのだな、と。
必死だと書こうとして、今更ながら認識。
それにしても、毎度、切迫した状況から逃れられない。
こうやって、追い立てられ、追い詰められることを繰り返し、
時が過ぎ、気がついたら老いているのだろうし、必ず死ぬのだなと。
ああ、もう、小屋入り十日前だ。
ヤバい。




2019年08月17日


いつも気遅れてしまう。
いい歳の、オッサンのくせに、恥ずかしい。
人と目が合うと、緊張する。
物怖じしない人が、羨ましい。
時々、だが、
意を決して、相手と目を合わせる
見つめ直す。
たいていは、呑んで、酔っ払って、
やり過ごしてるだけの体たらく、なのですが。




2019年08月16日


小さな傷をいくつか負い始めました。
すでにふらふらです。
気をつけないと。












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