UPLINK吉祥寺での新作短編&日替わり特集上映、 先日、盛況のうちに終わることができました。 ご来場いただいたお客さま、並びに関係者のみなさまに、 改めて感謝を申し上げます。 ありがとうございました、お疲れさまでした。
最終日は『Necktie』上映後に、一人で挨拶に立ち。 次が『眠り姫』だったので、 この13年間の上映のこと、振り返ってみようとしたのですが。 あんまり、うまく話せなかったな。
ぼんやりした「いやな感じ」が、 制作した動機のひとつだったという、 今までもよく話してきたことは、言えたのですが。 13年の間に、ずいぶん映画の置かれる環境も変わり、 例えば、ネットで映画を観ることが、こんなに当たり前になるなんて、 初公開の当時は、当然ですが、想像もつかなかったということ。 その変化と、『眠り姫』について考えようかと、 話してみようと思ったのでした。
映画とは、スクリーンに投影されて、 それを、じっと暗闇に身を沈めて眺めるもの… そういう前提が、意識さえされぬほどに、 まだ当然の認識だったころに、作られた映画だったから。 もちろん、レンタル・ビデオやセル・ビデオは、 今とは考えられないくらい、隆盛で繁盛していて。 だからこそ、天邪鬼としては、ソフト化―― つまりDVD、そしてBDにすることに、 ひたすら抵抗して、上映を続けた時期もあり。 それゆえに上映が続いた、とも言える、頃もあった。
だが、それもひと昔前のこと。 今や映画は、ちまたに膨大にあふれる映像の一種。 動画と呼ばれて、データ・ファイルでやり取りされるもの。 そんな時代に、『眠り姫』は、姿をほぼ変えず、生き延びてしまった。 しかも、おそろしくナイーブな作品であることを、 あの晩、久々にスクリーンで眺めながら、改めて思った。
体験が、極めて近似に、イメージとなっている。 冬場の斜光の、乾いた夕暮れの季節、 ふと空を見上げたとき、あるいは淡い陽だまりに、同じ光景を見る。 そんな状況や記憶へ、観る人を誘導する様々な趣向は、 映画館という装置がなくても、はたして成立するのだろうか? 配信された『眠り姫』が、携帯タブレットで見られる様子を思い浮かべて、 ぞっとしてしまったのでした。
けれど、一昨年、 ニューヨークで初めての海外上映があったことも思い起こされ。 その場に立ち会うことは出来なかったので、 実際には分からないのですが。 声の映画が字幕で鑑賞されることで、 伝わり方は、かなり違ったはずだし、 何か大切なことが決定的に伝わらなかったと思う。 しかし、紹介してもらい、良かった。
作品の受け取られ方が変質してしまうのを、ある程度覚悟しないと、 これからの時代に、映画は残っていかないかもしれないなと。 そんなことも思った、楽日の上映でした。
|