ダイアリー





*こちら「のんき日記」のみ、古い日付順になっています。


2003年09月24日


久し振りに家を出た。朝から。
ホンを書いた、篠崎誠監督の新作のゼロ号試写のためだ。
脚本とはずいぶん違う映画になっていたが、彼らしい作品だと思う。
うん。これでいいのだ。

せっかくだから、築地から銀座まで歩いた。
途中で雨が落ちてきて、あ〜あと思いつつも、中川幸夫の生花展へ。
休館日だった。エルメスめ。
腹が減ったので、確かギョーザの美味い中華屋があったはずと、有楽町を歩き回る
が、見つからない。それらしき場所が、すっぽり建築中。
う?ん。

こんな時はと、後輩を呼び出した。
打ち合わせと称して、お茶。
実際、彼には、十月五日に楽団カッセレゾナントとの映像イベントの、舞監をやって
もらうのだ。

そんなこんなの最中に、越川氏から、この、「日記をくれ」との指令を受けた。
「これから、地獄が始まるよ」とのこと。
今までもいろんな地獄を経験してきたが、今度は何だろう?

夜は、「のんき」の2号試写。
そして、遠藤嬢にお茶をご馳走になる。

日記初日が、話題のある日で良かった。




2003年09月25日


今日は、一日考えていました。
次回作についてです。

難航しています。
うんうん唸って、悩んでるうちに、夜が来て、朝になる。
もう二ヶ月以上、こんな日々が続いているのです。

当然そんなことで、暮らしが成り立つはずもなく、
ついに先週、○○○も尽きてしまいました。

もし仮に、
公開まで持たず、監督が廃業してしまったら、
前代未聞でおかしいだろうな、
なんて、後ろ向きなことを妄想していたら、電話が鳴りました。

今年の春先にホンを書いた、廣木監督の映画が動き出すとのこと。
ああ、これで、なんとかなるかもしれない……
ホッとしつつも、つくづく綱渡りな人生だなあと、思うのでありました。




2003年09月29日


今日は祝杯をあげました。

六年越しで、出来あがったのです。
カッセ・レゾナントの生演奏に、
合わせて上演する映像の、完全版が。

うれしいっす。
ションベン横丁でビールを二本。
侘美君と、平林選手と。

どんな内容かは、またいずれ、書きます。
とにかく、嬉しい。関係者のみなさん、ありがとう!




2003年09月30日


また飲んでしまった。しかも朝まで。

宣伝試写に顔を出したら、
助監督の頃、演出部の上司だった人が、
見に来てくれていた。

できも良くないくせに、生意気な助監督だった僕を、
変なヤツだと面白がって、使ってくれた人だ。

終わってから、
「行くぞ」と言われ、お供した。

「のんきな姉さん」の現場を振り返るたびに、
つくづく思う。
長くもないが十年近く、演出部を経験できて良かった。

演出という仕事は、
人間が、人間の感情を操り、何かを提示する、
ある意味、傲慢で危険な行為だ。
それゆえ、相当な思慮深さと、深い修練が求められる。

今も一線で、日本映画を支えつづける猛者には、
この駆け出しの後輩が、
いかに、混乱する現場で揉まれ、
やっとこさ乗り切り、
しかし、その混乱を利用さえして、
したたかに作品へ、すくい取っていったか。
出来上がりを見ただけで、
手に取るように分かったのだと思う。

一言。「頑張ったな。傑作だよ」

もう、泣きそう。

でも、軽口を叩いて、うそぶいて、
酒をあおり続けた。




2003年10月01日


二日酔いの頭をかきむしりながら、
一日中、英語と格闘しておりました。

ロンドンの、
レインダンスフィルムフェスティバルという小さな映画祭が、
「のんき」を上映してくれるので、英字幕を付けるのです。

語学は、相当苦手だったのですが、
翻訳者の方の英訳を、辞書を片手に読み出すと、
これが、けっこう面白い。

他言語に訳されることで、
骨組みが、かえってはっきり見えてくるのです。

なるほど、そういう話だったのね。
と、納得させられたりして、興味深い体験でした。

ところで実は、出品が決るまで、
その映画祭の存在を知りませんでした。
不勉強。まずい。

あわてて、ロンドン在住の後輩に尋ねたところ、
「小さいけれども、Greatな映画祭です」と返事が。

ありがたい。楽しみだなあ。




2003年10月03日


シンディ・シャーマンという美術家がいます。
へんてこな、セルフポートレートを発表し続けてる女性です。
「オフィスキラー」というホラーコメディ映画も、数年前に監督しました。

彼女の写真がなぜ、へんてこなのかと言いますと、
自分を、まるで何かの物語の登場人物のように撮るからです。

70年代に発表した、
「Untitled Film Still #」というシリーズは、
どこかで見た映画の、あるショットみたいな光景に、自分を投じたものです。
ここ十年ほどは、
おそらく自分がモデルであろう人形まで使って、
スプラッタや、性的被虐場面を撮影しています。

そこには屈折した、自我との葛藤が感じられ、
学生の頃から興味を持っていました。

あるとき、彼女が、そうした作品を作り始めたきっかけを、
語ったインタビュー記事を読みました。

彼女は、ニューヨーク州のバッファローで美大生の頃、
外出恐怖症になったのだと言います。
下宿の部屋から一歩も外に出られない彼女のために、
当時の彼氏が、街の様子をいろいろ写真に撮って来てくれた。
彼女はそれを、スライドで投影して、前に立ち、
鏡に写った自分を見て、実際にその場所に行ったかのような気分を楽しんだ。
それが、創作の始まりだったと語っています。

僕は、この話に、とても心が惹かれました。
すごく素敵な話だと思うのです。

五、六年ほど前のこと。
その頃、知り合って間も無い、侘美君から、
今度、楽団を結成して、初ライブをやるのだが、
映像を流しながら演奏をしたいと、相談を受けました。

それで作ったのが、「Untitled for Cindy」です。

再演の度に手直しを加え、
今回ようやく、完全版と言えるものが出来あがりました。
六年か。
なんと気の長い話でしょう……。

生演奏付き映像を上演する機会というのは、
そもそも、なかなか無いのです。
それを、秩父の方々の熱意と尽力のおかげで、
再々演ができまして、とても幸せです。

と、この辺から、5日の日記に突入します。

あ、そうそう、その前に、
学生の頃のシンディの彼氏というのは、
ロバート・ロンゴだったようです。
「JM」とかの監督の。




2003年10月05日


正直に打ち明ければ、不安でした。
小心者なので。

朝7時。池袋から出発した車中でも、
「落合は、案外、監督としてイケルのでは」とか、
スポーツねたで、気を紛らわせながら、平静を装ってました。

でも、そんな弱気は、会場に到着して、吹っ飛んだのです。

まだ、スタッフ集合時間前だというのに、
すでに、駐車場には、コンサートの看板と案内図が立ち並び、
機材の搬入が始まっている。
並々ならぬ、やる気が伝わってきます。

こりゃ、心強い。

実際、現地スタッフの方々の、細やかな気配りには頭が下がりました。
それは、舞台作りにも反映されていて、
とくに僕は、演奏家たちの椅子に、
わざわざ、木製の素敵なものが揃えてあるのに、唸らされました。

かっこえぇ〜!

ところが、成功を予感し始めたとたんに、音響のトラブル。
なんとか事無きを得ましたが、ゲネは押しに押して、開場ギリギリ。
ライブは、このスリルが、たまりませんな。

無事、幕は開きましたが、
やはり、凹んだのは舞台挨拶。
あれはどうも苦手です。

そして最後に。
打ち上げでご馳走になった、お味噌。美味かった!




2003年10月08日


昼間は、猿之助を見ました。
「競伊勢物語」です。

御殿は炎上するわ、倒壊するわ。
かと思えば、宙乗りへと、見せ場満載。
最後は、ドリフの“ジャンボマックス”的な、巨大な骸骨まで出てきて、
お腹いっぱい堪能しました。

数年前から、古典芸能に興味を覚えていまして、
国立劇場にいる友人から、いろいろ教えてもらっているのです。
古典は、物語の宝の山ですね。

夜。帰宅すると、友達が遊びに来ました。

彼とはずいぶん年が離れているのですが、妙に気が合います。
出会ったのは、僕が三十手前で、彼はまだ二十歳ぐらい。
それがもう、彼も、あの頃の僕の年齢に近づいているのですから、
時が経つのは、早いものです。

彼は、ミュージシャンです。
どこと無く、寂しそうでした。

「みんな、音楽が好きなのではなく、
バンドが好きなんだな、と思った」と言います。

バンドが好きな人たちは、結局、成功を求めていて、
うまくいかないと、疲れて飽きて、やめていく。
音楽が好きな自分は、たぶん、一人になっても、
ニューオリンズにでも行って、クラリネットを吹いてるだろう。

そんなことを、ポツポツ言うのです。

ああ、彼とは、これからもきっと、友達だろうな。
と思ったのでした。




2003年10月09日


夜は篠崎組の打ち上げだったが、どうにも憂鬱で、
行く前に、途中下車して、友達と一杯やってしまった。

出来あがった映画の責任は、監督にあるのだから、
どうこう言うのは、蛇足である。
あれで、いいのだ。
あれでいいのではあるが……である。

初めに物語を作った者としては、
べつに、シナリオ通りに撮らなくてもいいが、
意図ぐらいは、きちんと汲んで欲しかったなあ。
そうすれば、全く違う映画になっただろうと、思わずにはいられない。

まあ、そうは言っても、打ち上げである。

顔を出すと、
岡田プロデューサーに、「隣に来い」と座らされた。
何かと思えば、革命とアナーキストの話題をしたかったのだ。

やっぱり、この人、元・清順組だなあ。
ちょっとだけ、楽しかった。




2003年10月12日


高校の時の先輩が、
バイクに乗って会いに来ました。

もしかしたら、二十年ぶりに近い、再会です。

これも、映画の公開とHPのおかげ。
インターネットって、すごい。

でも、もっとすごいと思ったのは、
僕が高校時代に憧れた、先輩の“毒っ気”が、
ちっとも失われてなかったこと。

人って、あんまり変わらないものなのね。
自分のことは、棚に上げますが。




2003年10月13日


「堀田」を読みました。ついに。

山本直樹作品は、
ここ2、3年、意識して読まないようにしていたのです。
嵌まって、抜け出せなくなるので。

十代の末に、「あさってDANCE」に出会って以来、
90年代の奇跡のような作品群に熱狂しながら、
森山塔から塔山森まで、読み漁っていた僕は、
ほんとに、恥ずかしいほどのファンなのです。

さて、読後感。
何と書けばいいのでしょう。
正直に言葉にすれば、

あちらの世界に、行ってしまわれたのだなあ。

と、おこがましくも感嘆したのでした。




2003年10月15日


編集の宮島さんと、お昼ご飯の約束。
ところが、前夜完徹のあげくのうたた寝で、一時間近く遅刻してしまう。
それなのに彼は、HMVのDVDコーナーを物色しながら、
のほほんと待っていてくれたのです。

竜兄さんっ!

こわもての癒し系である彼とは、
お互い助手同士の頃からのつきあいで、兄弟仁義の杯を交し合う関係だ。
……というのは、半分冗談で、半分は真実です。
出会った頃から、僕のヘンテコな作風の良き理解者で、
以来、作品には必要不可欠な、頼りになる相棒なのです。

『のんき』の時も、
現場で、身も心もボロボロになった僕にとって、
映画を完成させる、勇気と力を、どれだけ与えてくれたことかっ!
……と叫ぶのは、少し大げさだが、かなり本当のことです。

さて。
夕方、スローラナーに行く用事があり、
それまでの時間つぶしで、渋谷をぶらぶら。
閉店する100円ショップに遭遇。
なんか面白そう。
入ってみると店内は、人だけがわさわさいて、商品はもうほとんど無い。
文化祭が終わった後の、教室みたい。
寂しさの高揚感に突き動かされて、何か買わねばと、さ迷っていたら、
ありました。 “七里” の印鑑が。
この子を、このまま置き去りにはできないっ!
……と、妙な使命感に燃えて、衝動買いしてしまいました。

そして、スロラナへ。

見せてもらいました。
山本直樹先生書き下ろしのイラスト。
わざわざ、映画の宣伝のために、です。
しかも、原作からのカットというよりは、
映画の中の、あるさり気ないシーンを、
山本ワールド妄想爆発!で描いてくれているのです。
感激ですっ!!!

いやあぁ?、実に、「!」の多い一日でした。




2003年10月16日


カレーを作りながら、1日部屋に居ました。
まあ、だいたい、そんな毎日を送ってるのですが。

ロンドンからローマ字メールで、ツッコミが入りました。
後輩からです。

Sorenishitemo, “My Easy - Going Sister ”.. tte anta...

トボケたタイトルが、英訳でも伝わったのでしょう。
受けておりました。




2003年10月17日


「TAMA映画フォーラム」のパンフレットに載せる、
寄せ書きを仕上げてから、渋谷へ。

公会堂で、『JORKERS』というGS音楽劇を見ました。
終わって会場を出ると、スロラナから着信が。

チラシとポスターのデザイン案が上がったのです。
早速、拝見して、うならされました。

そう来たか……

デザインの若林さんは、
ウォン・カーウェイや、ガレルも手がける、
孤高の人と、聞いてはいましたが、
突き抜けてますね、恐いぐらい。

イラストの原画を見たときも、
原作者から、映画作者へのお手紙をいただいたようで、
すごく興奮したのですが、
またしても、
「私は映画を、こう、見ました」
とでも、言ってるかのごとき、
若林さんの、鮮やかな表現を突きつけられて、
正直、びびっております。

映画を世に送り出すということは、
なんて面白いんだろうと、つくづく思いながら、
家路につきました。




2003年10月18日


取材で、旗の台にある、魚料理屋に行きました。
取材と言っても、シナリオではありません。
『グラフ品川』という、品川区の広報誌に掲載する文章のためです。
昔の古い写真(今回は物でしたが)を見せてもらい、お話を聞く、
というページを担当しているのです。

もともとは、高橋洋さんが脚本家になる前のアルバイトだったのですが、
すぐに、同じく先輩の、井川耕一郎に引き継がれ、
またまたすぐに、当時、助監督になりたてだった僕に、
「バイトしない?」と、譲られたのです。
以来、年一回ですが、もう十年以上続けています。

諸先輩方は、仕事も忙しくなったからか、
「普通の人々とつきあうのに疲れた」と辞めていかれたのですが、
“普通”という名の、唯一無二な人々の話しを聞くのが、案外面白いのです。
ここまで来たら、ライフワークかな、と思うほど。

けれども、編集長から、
「そんなに長くは、誌が持たないよ」と言われ、
シビアな現実を垣間見たのでした。




2003年10月20日


友達が遊びに来て、
山形ドキュメンタリー映画祭に行った話をしてくれました。

『鉄西区』の素晴らしさと、『スティーブ』の気に食わなさを、
大いに語って、帰っていきました。

そうそう。
向こうで、『夢で〜』の撮影の高橋氏に、ばったり会ったそうです。

あいつ、相変わらずたくさん、映画見てるなあ。

俺、最近全然見てねえなあ、と反省して、
また、飲んでしまったのです。




2003年10月21日


ときどき、不安になります。
現在の生活と、人生の行く末に。

考えているだけの日々。
このまま、いつまでたっても、形にならないのではないか。
それでも人生は終わってしまうのだ。
他にすべき、大切なことがあるのでは?
でも、考えることをやめたら、何も出来あがらない。

堂々巡りの地獄に陥ったときは、
必ず、頼りにする悪友が、います。
ムダ話につき合わせて、早十五年。かな。

チャットを開いて、ウダウダ、こぼしていたら、
言われました。

巨匠然としてれば、いいんじゃねえの。
そういうもんだろ。作品を残す人生って。

ああ、なるほどな。
少し、気が楽になりました。




2003年10月22日


ジンギスカンを食べました。
侘美君の行き付けの店で。
サントラのCDの件でお世話になる、
i-musicの方との顔合わせです。

しっかり者の平林君が居てくれたのを良いことに、僕は、
日本シリーズの行方が、気になって気になって、そわそわしていました。
ごめんね。




2003年10月23日


廣木監督との、脚本打ち合わせの予定でしたが、
前の仕事が押しているようで、延期になりました。

初稿は、春に書き上がっているので、
来年のクランクインに向けて、決定稿を仕上げるのです。
リ・スタートは来月から、かな。
それまではまだ、自分の次回作を考え続けれるなと。
前向きに。前向きに。

夜は、秩父のコンサートの打ち上げ。
カッセレゾナントの皆さんと、裏方スタッフの仲間と、
主催の新井さん、黒沢さん達も来てくれて。
楽しかったなあ。
バースデイ・ケーキまでいただいて。
あ。明日が誕生日なのです。このトシになって、今更だけどネ。
祝ってもらえるのは、幸せです。ありがとう。




2003年10月25日


『赤目四十八滝心中未遂』の、初日の舞台挨拶を見に行きました。
そして、映画。160分もある、力作です。
大森君は、やはり上手いなあ。落ち着いて見ていられます。

さて。
終わってから、友人らと飲み屋に行く途中で、
高橋洋さんにばったり。
アニメーション作家の新谷さんも一緒でした。
横断歩道のまんなかで、立ち話。
いやあ、相変わらず変な人ですなあ。

なんせ、学生の時分。初めて会ったときのこと。
飲み屋で隣に座った僕に向かって、
『エクソシスト』のリンダ・ブレアのごとく、首を回転させ、
「ヒロシビッチです!」と、宣った人ですから。




2003年10月26日


深夜。
越川氏から借りた、
唐十郎の『ビニールの城』を、
一気に読んで、頭、真っ白。
言葉も出ません。

天才の作品を、目の当たりにするたびに、
愚鈍な自分が、末席を汚すようなことをしてるのが、
恥ずかしくなります。

恥、から出発するしか、ありませんね。




2003年10月30日


「大変なことになりました!」
と、遠藤嬢から連絡をもらい、スロラナに駆けつけると、
本当に、大変なことが起きていました。

何がというと、チラシがです。
大傑作です。

越川氏によれば、
若林さんの、これまでの仕事の中でも、
最高作と言われている、『愛のコリーダ 2000』を、
越えたかもしれない、という鬼気迫る出来。

確かに。
これは、宣伝アートの歴史に残る作品だと思います。

僕は、
このチラシを手に取り、心動かされた人々が、
映画を見てくれることに、
大変な喜びを感じます。




2003年10月31日


大学生の頃というと、もう十五年も前のことなのですが、
サークルで出会った人々と、いまだにつきあいがあります。

夜。 『夢で?』の準備も手伝ってくれた後輩(♂)が、
久しく会っていなかった後輩(♀)を連れて、飲みに来ました。

彼女は不思議な眼をしています。
目線が、交わらないのです。

おそらく、微妙な斜視なのでしょう。
こちらを見ているので、視線を返しても、決して目が合わない。
そのもどかしさが、心の底を覗かれているようで、
焦って緊張して、ついつい酒の量が多くなる。
酔っ払ってしまい、すっかり朝まで。

ええ。ただ、飲み過ぎた言い訳です。




2003年11月01日


二日酔いをいいことに、一日寝転がっていました。

ぺらぺらめくっていたのは、尾形亀之助の詩集。
最近教えてもらったのですが、実に良いんだなあ。
一節、紹介します。

「いつまでも寝ずにゐると朝になる。
 眠らずにゐても朝になったのがうれしい」

しみじみ。これって、まんま、俺の生活じゃん。
でも、この人、餓死したんですよね……




2003年11月02日


知り合いの作・演の芝居を見に行きました。
ウルトラマンを書いた金城哲夫が、沖縄に戻ってからの生活をモチーフに、
創作する人生の苦悩について描いた物語。
ホンの良し悪しや、趣向の好き嫌いに関わらず、
こういうテーマは、ぐさりと胸に刺さります。
痛い思いは、活力に変えないと、ね。




2003年11月04日


何も無い毎日だけど、
不思議と、嬉しいことの重なる日があります。

宣伝試写も最終日なので、終わり際に顔を出すと、
「大変ですよ!」とまた、遠藤嬢がニコニコ。
試写に来た人が、会場に収まりきらぬほど、集まったそうで、
しかも、「安藤さんと、大友くんがいらしてます」。

おお、安藤さん。五年ぶり?
『blue』は拝見しましたが、
すっかりご無沙汰しておりました。

懐かしいなあ。安藤組をやっていた、二十代最後の夏。
「SPEEDは、二十一世紀も十代」。
というキャッチコピーを、街のポスターで見かけて、
二人で勝手にシビレて、口実作って飲み明かしては、
毎度毎度、酒癖の悪い監督を、自宅まで送り届けておりました。

映画の感想を話し出すと、
相変わらずの口の悪さと、切れ味は抜群で、
「作家だ」と冷やかし、「人非人だ」と誉めちぎり、
「俺は、商業監督だから」と居直るのですが、
もらった言葉、そっくり投げ返しますよ。安藤さん!
でも、イ・チャンホの名が出てきたときは、そう言えば、
『寡婦の舞』に感激した記憶を呼び起こされ、
さすが、鋭いですね。

こんな二人の、排他的な会話に、
呆れもせずに付き合ってくれた、大友くん。
彼とも、積もる話があるので、飲みに行きました。

じっくり話すのは、現場以来です。
当時はナイスボーイだった彼も、すっかり、
ナイスガイになって(しまって)いたことに、感慨を覚えました。
話してみると、やはり、
製作から公開にいたる長く辛い経緯のうちに、知らなかった事実も有ったようで、
すべてを了解して、彼は、こう言いました。
「関わったスタッフの皆さんに、お礼を言いたい」。

僕は嬉しくて、彼と別れた後、
思いつくままに、当時のスタッフ達に電話して、感謝しました。
夜遅くに、ただの迷惑電話ですよね。すまん。

そのうち、呼び出しに付き合ってくれる友人が現れまして、
また、飲んでしまったのでありました。




2003年11月06日


最近、体調が悪いです。
当たり前。飲み過ぎです。

重い身体を押して、調べものに、演劇博物館へ行きました。
すると、「燐光群の二十年」という企画展が開催中。
坂手さんは、まだ41。そんなにトシも離れてないのに、
この実績には……唸らされます。
反省しきりでございます。




2003年11月08日


面接をしました。
今月、俳優の卵達のための、
ワークショップの仕事をいただいたのです。

それにしても面接というのは、どうも苦手です。
長机と向かいの椅子との間に、何とも言えぬ威圧的な溝が横たわっていて、
それを作り出している側に自分がいるのが、いたたまれません。

いっそのこと、隣に座って話を聞けば、ずいぶん違うのではないか。
そんなことも思いながら、相対しておりました。




2003年11月09日


ワークショップのテキストにする台本を、仕上げておりました。
三日間で、受講生全員が出演する短編ビデオを、作ろうと考えています。

舞台は、ワークショップ。
すでに集まっている受講生達が、いつまで待っても、講師は現れない。
ちょうどその頃、都内で大変な事件が起きていて……
まあ、オチは想像できると思いますが、
キモは、結末ではなく、過程の時間です。
その時間を、彼らがどう演ずるのか。とても楽しみです。

さて。
選挙に行って、映画でも見ようかな!




2003年11月10日


昨日は、中平康の『美徳のよろめき』を見て、
あまりに美しいフレームワークによろめいてしまったのですが、
今日は、燐光群の『CVR チャーリー・ビクター・ロミオ』を観劇。
もう恐くて、恐くて、飛行機になんて乗れません。




2003年11月11日


この頃、体調が良くないので、
ゴロリと横になって、昔見た映画を、ビデオで見なおしています。
そうすると分かるのは、自分がいかに、
二十歳前後に出会った作品に影響を受けているかということです。
もはや、素地は出来あがってるのですね。
今日は、クロード・ミレールの『死への逃避行』を観ておりました。

夕方。某製作会社へ行き、廣木監督と打ち合わせ。
ぼちぼち、脚本の決定稿作りを始めましょう、という会。
『まぼろし』の話で盛り上がりました。
オゾンって、同い年なんですよねと、ぼやくと、
廣木さんが、「荒井(晴彦)さんに、『七里って監督、知ってるか』と聞かれたぞ」。
ひょえ?、恐わ。




2003年11月12日


朝から慌しく、心乱れておりました。
そんなとき安定剤になってくれる、
宮島編集チームや平林君の顔を拝めたので、
なんとか、平衡。

そうそう。
『のんき』のポスターなどの試し刷りを見せてもらいました。
感激です。前売り券のデザインが、また良いのです。
しおりにしたいぐらい。
これなら、映画が付いてなくても買いますよ。
と、監督にあるまじき発言をしてしまい、
遠藤嬢から、おいおいとツッコミ入りました。

夕方。新宿のギャラリーを下見。
『のんき』公開に合わせて、
山本直樹(さんの脳みその中)展を、企画してもらっているのです。
同行した越川さん。顔色悪く、咳も。
「調子悪いの当たり前ですよね」と、軽口叩きましたが、
ちょっと心配です。
でも、僕はまた、飲みに行ってしまったのでありました。




2003年11月13日


若輩者が言うと、失礼に聞こえるかもしれませんが、
素直な映画だなあと思い、その素直さに心打たれました。

あの素直は、廣木さんが大人である、ゆえんでしょう。
子供で天邪鬼な僕が、あの境地にたどり着くのは、
いったい、いつになることやら。

途方に暮れながら、
一駅歩いて、帰りました。




2003年11月16日


四谷から半蔵門へ歩きながら、
今日、マラソンがあるのを知りました。

コースを確保する作業って、手早いもんだなと、
感心しつつ、国立劇場へ。
『天衣紛上野初花』を観ました。
歌舞伎のユーモアって、上品で良いですね。
松本幸四郎は、とても聞き取りやすい発声をしていました。
現代劇の舞台にも立つ人だからかな。と思っていたら、
「それは高麗屋の、家の伝統なんですよ」。
そんなことを教えてくれる友人と、焼き鳥屋に入りました。

その店には、学生時代からよく足を運んでいまして、
もう十五年以上、値段が変わらぬのが、その理由でした。
ところが、メニューの中身が、変わってしまっていたんです!
同じ名前で出しているというのに。
まあ、それでも美味しかったんですけどね。

帰宅して、テレビをつけると、高橋尚子敗戦のニュース。
へえー。あの道で、そんなことがあったんだ。

ゴール直後のせつない笑顔が、けなげでした。
まるで、悪い男にだまされた女が、
それでも彼を信じようと、懸命に不安と戦っている表情。
そんな風に感じたのは、観劇した後だからかな。




2003年11月18日


午後には、平林君と、渋谷でお茶してました。
夕方。そろそろかなと、スロラナへ。
まさに届いた梱包を、宣伝部の女性たちが、開いておりました。

チラシにポスター、ポストカードにチケット。
いよいよ、これらが街に散らばって、
見知らぬ人々の目に留まり、手に取られるのです。
「頼むぞ、君たち!」
と、心の中で叫んでいたら、越川氏に呼ばれました。

山本直樹(の頭の中)展の打ち合わせです。
面白いですよ、みなさん。
今はまだ、どんなものになるかは書けませんが、期待して下さい。

そして、ひょっこり。
梶原マネージャーのM嬢が現れ、
みんなで、お菓子タイム。
そんなこんなで、ずいぶん長く、事務所におりました。

夜遅くなってから、企画の打ち合わせ。
下北の飲み屋に入ったら、
昔、廣木組の助監督として、参加した、
テレビ作品のプロデューサーと鉢合わせ。
早速、チラシを渡して、お店にも貼ってもらいました。

さらに、
先輩の西山(洋一監督)さんから、結婚したという電話が。
おめでとうございます!

たまに、こういう華々しい日が、
僕にもあるんですね。




2003年11月20日


一日、誰とも話さず、宮沢賢治を読んでいました。




2003年11月21日


明日から始まる、
ワークショップの打ち合わせをして、
早めに帰るつもりが、友人からの誘いで……
結局、三軒はしごしました。

というのも、金曜なので、
あちこちで知り合いが飲んでいたのです。
チラシを配らないと、ね。

チラシのハケは、すこぶる良いです。
すっかり持ち合わせがなくなるほど。
上機嫌で、終電に揺られて帰りました。




2003年11月24日


ワークショップの三日間は、
怒涛のように過ぎていきました。

ほぼ一人で、三十人に相対するには、
あまりに時間が足らず、よって、
必ず毎日、二時間は延長しておりました。

それでも、まだまだ。
次に機会があるとしたら、もっと余裕が欲しいなあ。

とは言え、用意した台本は、全て撮り切りました。
最終日の最後は、もうヘロヘロ。 終わってから、
自分の演技について、コメントを求めてくるみんなに、
笑顔を見せるのが、やっとでした。
ごめんね。

そうそう。
ちょうど、この連休の間に、
『のんき』が、新潟と多摩で上映されたのですよね。
反応はどうだったのかなあ。
ロンドンのときも、そうでしたが、
気が付いたら終わってたという感じ。
少しばかし、淋しいな。




2003年11月26日


突然、原稿書きの仕事が舞い込みました。
TVのディレクターをしている先輩の、助っ人で、
ナレーション台本を作るのです。
『空から見るセーヌ川』というBSの番組。

仮編集もそこそこの、二時間はあるワークテープを渡されて、
「じゃ、頼むよ」と彼は、次のロケで、ギリシャに行ってしまいました。

残された僕は、どうしたらいいのでしょう?

まあ、フランスの歴史でも、勉強し直すかな。




2003年11月27日


編集の宮島さんから、助手の村上君をお借りして、
先日撮影した、ワークショップでの短編ビデオを、編集しておりました。

こりゃ、なかなかシュールで面白いですよ。
間に挟まるCGが、もう、爆笑もん。
『Untitled for Cindy』を手伝ってくれた、東海林君が作ってくれたのです。

台本では、『演技のレッスン』というタイトルでしたが、
『ワークショップ・テロ 渋谷大爆発』に変えようか、なんて話にもなりまして。

そうなのです。
『地獄の黙示録』のように、渋谷が炎上するのです。




2003年11月28日


相模大野にある病院へ。
成田氏のお見舞いに行きました。

何バスか、忘れましたが、
車内でお菓子を売っているのに、びっくり。
カレーのレトルトも。

さて、お見舞いに行くと、先客がおりました。
それは、佐々木志郎さんでした。
(オフィス・シロウズの、じゃない方……という紹介も、なんですが)
つまり、かつて最も先鋭的だった、にっかつ黄金期の企画部長が、
切れ者の部下の、(元)課長を見舞いに来た、という図だったわけです。
そして、僕が同行した、尾西さんは、その時代は、企画部のバイト君。
なんと偶然とは、恐ろしいものか。

二十年前の光景を想像しながら、
末席から、歴史の目撃者を気取っておりました。
しかも、この情景は、廣木さんのホンの、ある場面で使えるぞ。
しめしめ……。
って、何のこと書いてるか全く伝わりませんよね。
でも、日記なんて、そんなものでしょう。




2003年11月29日


今日はワークショップの最終日。
編集したビデオを、みんなに見せると、
やはり、渋谷炎上が、大受けしておりました。
やって良かった。ありがとう、東海林くん。

おかげで、打ち上げはムチャクチャ盛り上がり、
盛り上がりすぎて、顔出す予定だった友人の、
ジャム・セッションに行けなくなってしまいました。
ごめんね、イチさん。

でも、みんなと話せて本当に良かった。
三十人もいたから、時間が足りなくて、
まるで、行列の出来る○○状態。

終わってから、へたり顔で、
嫌われ者で引きこもりのはずなのに……
と、自虐的な呟きをしていたら、
平林君に、笑われました。




2003年11月30日


先輩の西山監督の、結婚パーティに行きました。

僕は、昔からこの人が大好きで、
彼の最初の16mmの自主映画の時から、
ずっと、お世話になっていた(お世話した?)のでした。
まだ、二十歳になるかならないか、そんな頃に、
「サークルOBの現場を手伝え」という指令が下り、
行った映画の監督が、西山さんでした。

『エルビスの娘』。脚本は、高橋洋。
で、植岡善晴監督の奥さんが出演していて、
彼女には生まれたばかりの赤ちゃんがいまして、
お守りを、僕はしておりました。

パーティには当然、その頃の顔ぶれも勢ぞろいで、
あのときの赤ちゃんは、すでに高校生。
なんか、不思議です。
でも、変わらず植岡夫人は、可愛らしくて、
今だから告白します。
当時、惚れておりました。
何を書いているのでしょう。
植岡監督も、好きだから許して下さい。
僕が、初めてプロの現場を手伝ったのは、
植岡さんが、今は無きディレカンで撮った、テレビ作品ですし。
言い訳になってないか。

そんなこんなで、
僕は、この顔ぶれに混じると、いつまでたっても、
ずば抜けて年の離れた、後輩でして、
すっかり、弟のような顔をして、楽しんでいたら、
昨日まで、ワークショップで一緒だった女性が、
西山さんの新婦方の知り合いで、来ていまして、鉢合わせ。
しかも、そのことを先輩達に気づかれてしまい、
「え、何? 七里が、先生?」
みたいな状況に、突入。いやあ、キビシーィ!
って古いギャグを飛ばすわけにもいかず、
いやはや、もう、ってな感じでございました。




2003年12月08日


日にちの判別も、つかないような生活をしておりました。

11月末の五日間も、
日記に記してない時間は、勉強していたのですが、
とにかく調べることが多すぎる!
あ、セーヌ川についてです。

空から見るセーヌ。
2時間の番組中、ほぼ全て空撮で、
源流から河口まで一気に見せ切って、
フランスの全てを語ってやろうという、先輩の、
挑発的な姿勢は、無言の映像から、じんじん感じられ、
こちらも、とてもおろそかには、
言葉を置けない状況に追い込まれていたのです。

確か水曜は、秩父のお祭りを、
十月のイベントの御礼を兼ねて、見物に行く予定だったのですが、
それも土壇場で断念。
今、離れたら、絶対終わりません。
なんせ、2時間ぶんのナレーションですから。

最後の四日間ぐらいは、ほぼ寝てませんでした。
そうなると面白いもんで、
ほぼ何も食べずに、大丈夫なのです。
身体は死んでいるということなのでしょうか?

まあ、経済的には大助かりでしたが。

12月8日

夕方までに、なんとか、初稿を提出しました。

そこで、ぶっ倒れるかと思いきや、
ランナーズ・ハイってやつなのか、目はランラン。
全然、寝る気になりません。
よし、行ける。

ペドロコスタを見に行きました。
『ヴァンダの部屋』の最終試写だったのです。

いやあ?、凄いっすよ。
安藤(監督)さん風に言えば、人非人度の高い(?)
奇蹟のような映画が、世界には、まだまだ撮られ続けているってことですな。




2003年12月09日


パンフレットに載せる、インタヴューを受けました。

めためた、でした。
聞かれるままに、答えるうちに、
次々と忘れていた昔の記憶がよみがえり、
とりとめない、独り言状態。
90分テープが、三本は回ってましたが、
オフレコ内容ばかりで、いったい、どこが使えるのやら。

アレックス・コックスは、明瞭簡潔に、
ずばり、核心を答えてくれていたよなあ……。
聞き手からすれば、僕は、頭を抱えたくなるような取材相手だろうな。
そう思うと、どんどん落ち込み、最後は消沈。
ため息つきつつ、背中を丸めて帰りました。
越川氏と遠藤嬢は、笑顔で見送ってくれましたが。

このままでは、家に帰れない。
途中下車して、友達を呼び出し、お茶を付き合わせました。
U-20の韓国戦は、良い試合だったよな、とか、
サッカー話なんかで、気を紛らわしていたら、
彼は、僕の顔をじっと見て、言いました。

「何があったか知らんけど、
 もっと自信を持って生きろよ」。

はい。その通りでございます。




2003年12月10日


夕方から、ナレーション原稿の、読み合わせチェック。
その場の直しも、なんとか切り抜け、無事終了。
ディレクターの先輩と、黒ホッピーで乾杯しました。
十日ぶりに飲んだアルコールは、瞬時に身体中を駆け巡り、
すっかり、陽気になりました。




2003年12月11日


雨が、しとしと。
越川氏とバスに乗り、山本先生に会いに行きました。

公開に合わせた、山本直樹展の打ち合わせです。
越川氏から、びっくり提案。
面白い場所が、会場になりますよ。
しかも、展覧会のために、僕が、『眠り姫』をテキストにした、
ビデオ作品を作ることになりました。
いやあ、大変だ。
そうなのです。公開初日が決ったのです。
一月十日です!
みなさん、よろしくお願いいたします。

そういうわけで、
テアトル新宿へ行き、公開に向けての打ち合わせ。
支配人の小杉さんと、米窪さんを交えて、四人で中華を食べました。

とにかく、『のんき』を当てましょう!と、小杉さん。
そして、続編を作るんですよ!
早くも、『のんき2 姉さん南国編』の企画を語り始めました。
姉さんが、流れついた孤島には、
島民もいないのに、役場があってそこに、
たった一人、赴任している課長が、姉さんに住民登録を迫るんですよ!

あんたオモロいよ、小杉さん!
一緒の電車に揺られて、帰りました。




2003年12月12日


『眠り姫』のホンを書き始めました。
構想は出来ているので、一気に仕上げようと、
まだ暗いうちから意気込みましたが、
そんな、簡単には行きませんよね。

昼頃、中断して打ち合わせへ。
公開まで、もう時間も無いので、
ホン作りと平行して、準備を始めなければなりません。

夕方。有楽町の朝日ホールへ。
ホウ・シャオシャエンの新作『珈琲時光』の、完成試写に行きました。

今日って、小津の誕生日&命日だったんですね。
小津と言えば、僕は、銀座の東晃苑のシューマイ。
美味しかったのを思い出しました。
そんな、お腹がすく映画だったのです。
びっくりしたのは、ラスト近くで、自分の顔が大写しになったこと。
山手線での撮影に、仕込みの客として、参加してはいましたが、まさかね。
隣で寝てた女の子が、一青窈だったようです。
顔、知らなかった。

会場で井土(紀州)に、ばったり。
彼もエキストラに行ったそうですが、そのシーンは切られてたようで、
たいそう悔しがっておりました。

というわけで、井土と飲みました。
同席したのは、なんと、上野昂志さん。
何故か、シネマ69、シネマ69……と呪文が頭を駆け巡りました。
ヒトミシリな僕が、なんとかなったのは、
山本さんや、懐かしい吉岡くんも一緒だったからかな。
良い日でした。




2003年12月13日


パンフレットの、原作解説の原稿を、
一日書いておりました。

夜遅く、現場直前の友人が、
わざわざ自宅近くまで来てくれて、
『眠り姫』の準備の相談に乗ってくれました。
そのとき一緒にいた、目の鋭い若者がおりまして、
小沢君という自主映画監督なのですが、
彼が、手伝ってくれることになりました。
心強い。そして、うまくいくと良いのですが。




2003年12月14日


昼過ぎに、ようやく原作解説を仕上げ、
『眠り姫』へ、再び。
とにかく、初稿を上げないと。

夜。トヨタカップを流していたら、
テレビがピコピコ、臨時速報。
え、何? フセインが捕まった?




2003年12月15日


フセインの続報が気になりながら、我慢我慢でカンテツ。
またしても、日付が意味ない世界に突入しました。

昼頃、やっと初稿を上げて、スロラナへ送信。
急いで国立劇場へ。
受付で、友人が、僕の顔見て大爆笑。
「かなり、キテますねえ」。 ……お恥ずかしい。

さて。
文楽は、鑑賞教室と銘打ってる公演なので、
女子高生が、学校ぐるみで来てましたが、
先生たちは、内容知ってて連れてきたのだろうか?
『夏祭浪花鑑』って、義父を、
メッタメタに刺し殺すところが、見せ場なんですが。




2003年12月16日


朝から大変。
ケイタイがクラッシュ!
液晶が見えなくなりました。
これから準備で、じゃんじゃん連絡大会、っちゅうのに。
メールは読めないし、着信も分からない。

ささくれ立った気持ちで、スロラナに行くと、
煮物を出してくれました。ああ、美味しい!
そういえば以前、冷えたビールをいただいたこともあったなあ……

飲んだり、食ったり、へこんだり。
配給会社を、何だと思ってるんですかねえ、全く。




2003年12月17日


早朝。メールを開くと、
ついに来ました。ロングインタビューの校正。
五万字あったのを、
一万数千字まで削ってくれたとはいえ、長げぇー。

先日の日記で、90分テープ三本と書きましたが、
遠藤嬢から、「120分テープです」と訂正されまして。
その言葉の示す実態を、目の当たりにして、たじろぎました。
でも、やってしまわないと。

午前中いっぱい頑張っても、焼け石に水。
こりゃ、あかん。
長期戦覚悟で、越川氏に締め切りを確認して、
午後からは、『眠り姫』のロケハンに出ました。

そのロケハンが、また、袋小路状態。
日が暮れて、暗い顔して、スロラナに帰還。
でも、そこで、光明が見えたのです。




2003年12月19日


17夜から、またしても日付が消えました。

家では原稿。外ではロケ準備。 眠った記憶がありません。
そうしてなんとか、19夜までに、インタビューの校正を終えました。

そうそう。
『どんてん生活』の山本くんに会いました。
『眠りっ姫』の中の、ある役をお願いしたのです。




2003年12月20日


『のんき』パンフの校正終わり、つかの間の開放感。

午前中、侘美宅へ。
マドレーヌをいただきながら、『眠り姫』の音のプランを話しました。

それから、馬場へ。
地方公演から帰京した、後輩の橋爪くんと、久し振りにお茶。

さらに、新宿のギャラリーへ。友人の写真展は、力作でした。
僕も自転車でよく通る、何の変哲もない遊歩道の風景。
でも、どこか違和感。わけを尋ねると、
三年近くかけて、全て同じ光線を狙ったのだそうな。
素晴らしい。
写真たちに見つめられながら、しばし、日本酒を注ぎ交わしました。




2003年12月21日


『眠り姫』の決定稿を、
上げなければなりません。当然、昨夜から繋がっております。
今月、これで、何度目でしょう? 眠った数を、日にちで数えたら、
十二月は、二十日ぐらいしかないんじゃないかな。




2003年12月22日


『眠り姫』の主演の、お二人と会いました。
つぐみちゃんと、西島秀俊さんです。

こんな年末の押し迫った時期に、
小さなビデオ作品へ、どうもありがとう。
そのほかの協力してくれる、スタッフやキャストのみなさんにも、
感謝の気持ちでいっぱいです。

と、いうわけで、
タイミングよく連絡をくれた後輩と、
久し振りに朝方まで、飲んでしまったのです。




2003年12月23日


二日酔いの頭をかきむしりながら、現場準備。
年末に合流してくれる、撮影の高橋氏と、軽い打ち合わせ。

そこへ、先日、『のんき』のチケットを、預かってくれた友人が現れました。
なんと、すでに十枚も売ってくれたとか。
うれしいっす!

どうも、ここんとこ、僕自身の『のんき』の情宣が、手薄になってまして。
『眠り姫』の製作を言い訳にはできませんよね。

この日記を読んでらっしゃる、みなさん!
どうか、『のんき』の宣伝に、協力お願いします!




2003年12月24日


世間は、クリスマスイブ。
でも、僕らは、『眠り姫』の収録初日です。

朝八時から、御茶ノ水の、
とある芝居の稽古場を借りまして、
怒涛のように、レコーディング大会。

え? なぜ、撮影もしてないのに、
アフレコかと申しますと、
『眠り姫』は、声だけの映画なのです。
?と、思われる方。どうぞ出来上がりをお楽しみに。

予定通り、夜七時ごろ、現場を終えまして、
渋谷に行くと、そこは……。まあ、それ以上は書きません。
みんなお幸せに。

スロラナに戻ると、
『のんき』のチラシの最新版が、刷り上ってました。

「一月十日公開」の日付入り。
そして、石橋蓮司さんのコメントには、ビビリました。
映画、見られてしまったなあ。あの、怪優に。
ビビリながらも、嬉しくて、
友人を呼び出して、帰宅前に一杯ひっかけました。

その友人は、二児のお父さん。
小さな息子たちが寝静まるのを待って、
サンタのプレゼントを置くのだと、目を細めて話してくれました。

なかなか、オツな、イブの日でした。




2003年12月25日


久し振りに、
「のんき」のプロデューサーの、石毛氏と会いました。

公開イベントに便乗して、
ビデオ作品を作り始めたことを報告し、構想を話すと、
徹底的にやれと、ハッパをかけられました。

でも、やればやるほど、
ヘンテコなものになっていく傾向が、僕にはあるんですよ。
自重を込めて話すと、
そんなこと言わんでも分かってる、という顔をして、
「お前みたいな作風は他にいないから、いいんだよそれで」
と、さとされました。

まあ、誉められたんですよ、ね?




2003年12月26日


朝早くから、
たまりに溜まった、日記を書いていました。

後追い日記って、意外に楽しいんですよね。
思い出す行為が。

夜は、『世界遺産』の忘年会へ。
今年、何本か、台本を担当したのです。

ナレーターの寺尾聡さんに、
『のんき』のチラシを渡したら、
「僕のと同じ日だね」と言われました。

そうか。『半落ち』も十日が初日なんですね。




2003年12月27日


収録した音源テープを、
聞き込んでいるうちに、日が暮れました。

慌てて、打ち合わせに行くため、
電車に飛び乗ると、車窓に凄い光景が……。

冬は、空気が澄んでいるんですよね。
『眠り姫』の撮影の方針が見えました。




2003年12月30日


撮影を始めると、
日記が書き辛くなるもんですね。

いろんなことがあり過ぎて、
何書いたら良いか、分かりません。

こんな日記、ありですかね?
怠慢?




2003年12月31日


猫を撮影しに、知人宅へ。
というか、年末の宴会ついでに、猫を撮ったと言いますか。

でも、なかなか良い画が撮れました。
よくやったぞ、前田!

あ、前田って、猫の名です。
ちなみに、知人の名字は前田ではありません。




2004年01月01日


酒も抜けぬまま、元旦の丸の内へ。

誰もいない街を狙ったのですが、
ぱらぱら、人が。
みな、同じ建物から出てきます。

中央郵便局でした。

お疲れ様です。




2004年01月02日


なんだか、年が明けた気がしません。
2003年が、まだ続いているような。
お正月の、ぼんやりした時間が過せないからでしょうか?
あの、だらだら感が、年の区切りになってるのかな。




2004年01月03日


朝から深夜まで、
侘美宅で、『眠り姫』の音を、繋いでおりました。

手応えありです。

狙い通り、声だけの映画というコンセプトを、
生かす上映形態を、考えられないかな。
そんな欲望がむらむらしていたときに、
現れたのは、遠藤嬢でした。
そして、発した言葉が「ちゃぶ台使用」。

そうか。
『眠り姫・ちゃぶ台使用』。
これは、いいぞ!




2004年01月04日


あれですね。
パソコン編集というのは、
便利なようで、不便ですね。

昨夜は、ハードディスクのクラッシュで、
平林選手と今西さんが、オオワラワ。
今日は、宮島さんが、
固まるPCと悪戦苦闘しておりました。

デジタルと疎遠に生きてきたので、
切った貼ったのフィルムの方が、
よっぽど合理的だと思えたのでした。




2004年01月05日


早朝出発で、中之条へ。
8?撮影をしてきました。
実に楽しかった。やはりアナログは良い。
アナクロかな?

日没とともに帰路につき、
夜は、廣木組の脚本打ち合わせ。
な、なんと。16日までにホンを仕上げねばなりません。
ウ?ン、しびれる。
でも、『眠り姫』も『ラマン』も、
両方傑作にしたいので、頑張ります。




2004年01月06日


ホンの構想を練りながら、
今後のロケの方針を立てる。
頭パニック寸前です。
支離滅裂なことばかり言って、
平林くん、ごめんね。




2004年01月07日


朝九時。テアトル新宿。
公開前のプリントチェックです。

『のんき』も『夢』も、
画面のたて横サイズが、1:1.66の、
ヨーロピアン・ビスタサイズで撮影したのですが、
上映は、一般的なアメリカン・ビスタサイズに決りました。
ベターな選択ですが、ベストでないのが残念。
頭部のてっぺんが、少し隠れます。

「アルメンドロスですね」と話しながら、
たむらさんと、コーヒーを飲みました。
喫茶店を出た後、
僕は『眠り姫』の編集に向かいましたが、
たむらさんは、もの足りなげに、新宿の街へ消えました。

飲みに行ったんだろうな。
でも、まだ、朝の十時過ぎですよ。




2004年01月08日


学生時代に戻ったような気分です。
何がかと言いますと。

僕は15年ほど前は、
自主映画をやっていた、8?小僧でして。
上映会に作品を間に合わせるために、
直前まで右往左往。 あの頃の感覚です。

ここ数日は、
映像や音源の取り込まれた、
外付けハードディスクというやつを持って、
パソコン行脚を続けてるのです。

なかなか、シビレル展開ですな。
でも、まあ、なんとかなるでしょう。




2004年01月09日


昨深夜に、
侘美宅で仕上げた音源とともに、
三本木宅へ。 毎度、お世話になります。

で、ついに、
『眠り姫』ちゃぶ台仕様が、完成しました!
と、言うのはまだ早いか。
現在、CPUが演算中です。
おそらく明朝には、出来上がってるはず。

ふう〜。
これでひとまず、廣木さんのホンに取りかかれます。
公開初日前に、やることがあるのは、ありがたい。
いらぬ心配をせずに、済みます。

そして、予告です。
『眠り姫』 Coming Soon!
え? どういうことかって?
上映仕様も、製作中なのです。




2004年01月10日


この日の感激は、
おそらく生涯、忘れられないでしょう。

正直言って、不安でした。
新宿には、早めに来ていたのですが、テアトルには近づけず、
三平ストアの上のレストランで、友人とメシを食っていました。

一杯引っ掛けて行きたい気分でしたが、
舞台挨拶を考えると、そんな勇気も出ず、
集合時間ギリギリに、走って向かったのです。
靖国通りを。

すると、何だ! あの人だかりは?
いやあ参った。びっくり。

列の最後尾は、向こうのブロックを曲がっていたそうで、
磯見は、「プロデュース史上最高記録!」と興奮してるし、
廣木さんには、「一生無いから、記念写真撮っとけ」と言われるし。
(あ、シャンパンありがとうございました!)

もう、何がなんだか分からないまま、
舞台に上ったのでした……。

みなさん、ありがとう。




2004年01月11日


10日の晩の打ち上げは、壮絶なもので、
どうやら、みんな朝まで飲んでいたようです。

と、伝聞調なのは、
途中で抜けねばならなかったのです。

後々のハードスケジュールを考えると、
初日の余韻を返上するしか、
『眠り姫』の雪ロケを入れる日取りが無い。

おそらくみんなが、ヘベレケになっている頃、
僕は、平林くんと宮沢と、関越道を一路、水上へ。
ブルブル震えながら、雪上に立ちすくんでおりました。




2004年01月15日


11日の午後に帰京して、
夕方、宮沢とささやかな祝杯をあげたのを最後に、
またしても、日にちの判然としない期間に突入しました。

廣木さんの新作の決定稿を書かねばなりません。
なんせ、クランクインは、二月二日。
もう、半月余りしかないのです。

ホンが仕上がらず、準備が進まない辛さは、
助監督出身の僕には、身に詰まされるほど、よく分かります。
一刻も早く、上げないと。
不眠不休で続けるために、
喫茶店を根城にして書いておりました。

あるとき、店を出ると、自転車が無い。
ヤバイ。 こんなときに、撤去されたか?
ハチの巣状態の髪を掻き毟りながら、右往左往。
ありました!
でも、無造作に押し込まれた山の中。
引っ張り出したら、自転車のドミノ倒し。

やれやれと、起こしていたら、
通り掛かり風の女性が、手伝ってくれました。
なんて親切な……と、
「あの……『のんきな姉さん』の監督さん、ですよね?」
え!?

なんと、初日に見に来てくれたのだそうです。
あまりに突然で、偶然過ぎる出来事に、僕はオロオロ。
御礼もそこそこに、その場をそそくさと逃げ出してしまいました。

ごめんなさい。 悪く思わないでね。
書いてる時はいつも、極度のヒトミシリに陥ってしまうのです。




2004年01月16日


なんとか、約束の夕方までに、
ホンを書き上げ、提出しました。

もうフラフラ、ボロボロ。
でも、今日は山本さんとの対談イベントです。
とにかく、風呂に入って、さっぱりして、
愛蔵書である山本さんの漫画を、
袋に詰めれるだけ詰め込んで、テアトルに向かいました。

が、
もうメタメタ。
非常に、落ち込みました。

この日は、後輩たちが、たくさん来てくれていて、
上映後に誘われて、飲みました。
そして、慰めてくれました。
「その状況で、フリー・トークはキツイっすよ。
 せめて、一問一答にしてもらえば?」
よろしくお願いします。




2004年01月17日


さて。
『眠り姫』、再開です。
改めて、スケジュールと完成の見通しを打ち合わせていたら、
廣木組から、連絡が。

明日までに、もう一稿を。

心構えはしておりました。
そうやすやすと、解放されるわけ、ありませんよね。
スクランブルです。




2004年01月18日


夜までに、間に合わせました。
なんとか、ね。
でも、これでようやく決定稿です。
ホッ。

スタッフルームに行くと、
『のんき』でも助監督をしてくれた窪田君が、
出来たてほやほやのホンに、目を通しておりました。
頑張れ。傑作にしてくれ。頼むぜ。




2004年01月19日


今日は、個人的に、
『のんき』のプロモーション・デイです。

まずは昼過ぎに、六本木のイタ飯屋へ。
『Cindy』に出てくれた、こづえちゃんがバイトしてるのです。
チラシを配って、武蔵小杉へ。

川崎FMの『シネマストリート』に、
華子役の梓ちゃんと、出演しました。
この番組のパーソナリティの岡村洋一さんは、
実は、何故か、『のんき』の打ち入り飲み会にいた、
縁ある人、なのです。

番組中で、辻香織の新譜をかけました。
廣木さんと、『ラマン』のテーマ曲にしたいねと話していた、
『少女』。五輪真弓の名曲のカバーなのです。
そうそう。
『ラマン』って“華子”の物語なのです。
って、話がコンガラガリそうなので、やめます。

夜は、新宿のジャズ・バー「J」へ。
イチ・タカタさんのグループのライブがありまして、
その場を借りて、告知をさせてもらいました。
イチさんは、カッセレゾナントのメンバーでもあるのです。

『のんき』の宣伝をして、チラシを配っていたら、
女の子二人組が、「昨日、観ました」。

すごく、嬉しかった。












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