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息をのむような映像が連なっている。
一見、重要なものは何も映っていないかに見えて、実は全部が重要かもしれない。
ある種のでたらめさ、詰め込んだ感じが見ていてワクワクし、気配が複雑な感情を呼び覚ます… ゴダールに似ている。
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なぜ眠る女が魅力的なのか映像を通じて教えられたように感じる。その女はよく眠る。眠る女が発するのは夢がはらむ心地よいめまいだ。だから人をひきつける。うまくつかめないもどかしさが、だからこそ、魅力になる。
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明け方の巨木と空。人間が一人も映っていない。
映画のなかの、その風景を観たとき、ゆっさりと心が揺れた。
誰も見ることがかなわない、けれども深く知っている風景。
あのなかへ、わたしも入っていきたい。
人間のかたちを解いてから。
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この映画は登場人物がほとんど画面に映り込まず、キャラクターの設定はほんの少しのキーワードを与えられるだけで、鑑賞者に委ねられている。にもかかわらず、まるでその姿が見えているかのように当たり前に存在してしまっている。それを奇妙とも思わず、ストーリーに入り込んでしまっている私は、どんな不自然な状況にも考え込まず対処できる「夢の中の私」のような状態だった。確実に目を閉じているのに見えているという感覚。そんな状態のまま、様々な常識を飛び越え、時間の感覚さえ奪われてしまう映画。それでいてリアルであるという矛盾。とてもリアルな夢がそうであるように、いつか映画として観たということを忘れ、自分が体験したことのように思い込んでしまう日が来るんじゃないかと、自分のことが少し怖くなる。
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生きていることが異常に怖くて、心が脆く崩れてしまいそうな不安にさいなまれている男女の気配。
それが、わたしの不安に一番近い孤独な心境に触れた。
記憶の中に見つめるショットは、もはや綺麗な鉱石のように固まっている。
それは不安でありながらも、いとおしいかけらなのだ。
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映像の感受性がとても繊細で、感度が非常に高い作品だと思った。
ただのペットボトル一本がすごい。こんなにキレイなのか、と。“きめ”というか、“触知性”と言ってもいいかもしれない。
空気がエーテルのようになっている映画だ。世界の初めての夜明けを見ているようだ。
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今、目の前に映し出されている風景は誰の見たものだろう。
カメラという客観的な目が介在しないと成立しない実写映画において、この『眠り姫』は、主観と客観、意識と無意識のゆるやかな揺らぎを感じさせる。存在することの不安定さを描く事、僕がアニメーションで描きたかった要素を大胆な実験精神で形にした七里監督の取り組みに敬意を表します。
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僕たちがあまり意識しないで嗅ぎ取りながら暮らしているお互いの気配のようなものを純粋に取り出すとこういう形になるのかと思いました。
幻覚のようなものが描いてあっても、日常の概念で切り取るような正常だとか異常だとかというのとは別の相のできごとなわけで、それゆえに不安な感じがないのでしょう。
とても面白かった。
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対象ではなく、それを観る主体の側に同一化することを「象徴的同一化」と呼ぶ。ある欠落を共有すること、それが象徴的同一化の基本だ。離人感の視点から眺める世界は、生まれたばかりの廃墟のようだ。完結した生の営みと痕跡だけが残された廃墟は、日常に彼岸の美を添える。それはおそらく、山本直樹の描く、あの気怠そうなヒロインたちの不可解な美しさにも通ずるものだ。彼女たちの心はわからない。しかし同一化することはできる。そう、膨らんでゆく青地の顔が、伸びてゆく野口の顔が、イメージできないのに忘れられないものになるように。「眠り姫」の映像は、ひとと映画が関係するさいに、欠如こそが本質的な要件であることをあらためて思い出させてくれる。
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人は一日のうちに何万回もの瞬きを繰り返して生きている。起きて活動している間もその瞼の裏側の現実の残像を白昼夢のように見ながら生活しているわけだ。そのサブリミナルな映像は心の内側にまで投影され、もうひとつの日常の物語りを創り出す。
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雲と木が怖いくらいに奇麗だった
手は変 (だよね ――)
日本の家屋はどうして怖いのか
日本が恋しくなる理由のすべてが詰め込まれていた
この2、3週間の間に この映画を何回も繰り返して見た
そんなことしたのは初めて
女の子が作った映画なのかと思った
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『眠り姫』は思い出すための映画であるようにかんじます。微熱のときだけかんじるにおいや
冬の朝、教室にはいるときのむっとした人いきれ──
どこまでもおぼろげで、意識しておもいだすことはできないそれらのイメージが、
さわさわと風のように湧きおこってくる。どこから?
声を持たない映像と、映像をもたない声のあいだから。
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共感覚を誘う表現 ──
美しい映像と音響を視聴しているうちに、もうひとつの視覚的な、あるいは空間的なイメージが、否応なく脳内に浮かんできてしまう。このような感覚や体験を、ハイテクを駆使して再現しようという取り組みが進められる一方で、この映画は、それを前提として成立しているように思われる。僕のような、ヴァーチャルリアリティの研究に携わる者にとって、意識すべき作品であると断言できる。
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映画は人が出るのが当たり前という考えは、人間の奢りであるとこの作品を観て気づきました。 空、太陽、木々、机…… まわりを見てみれば、人間以上に存在感のある物たちが濃厚な気配を漂わせています。
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球がないボーリング場、車輪のない自転車、絵のない絵本…あり得ない現実は、状況によって、とてつもなくリアル。
そんなリアルをあり得ない手法で実践した七里監督がすばらしい。この映画で見えてくるものはすべて「正しい風景」に思えてくる。
僕もピンポン玉の転がる音は激しくうるさい。新しい共有感に乾杯である。
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映画のような映画じゃないような不思議な作品、僕は好きです。
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