ダイアリー






2020年10月21日


体調が少し良くなったので、数日振りに一人でふらりと吸い込まれてしまった。
打合せの帰りに、長年のよしみで、慣例だし。
が、一緒に呑むつもりだった彼は、まだ別件ありとのことで、仕方なく。
つどつど立ち寄る、もつ焼き屋へ。
というのは、言い訳に過ぎないが。

隣で呑んでる、常連らしきオヤジ(と言う自分もオヤジだが)の赤ら顔。
なんとなく哀愁漂い、愛らしく、しみじみ。
自分もこのくらいの歳まで、赤ちょうちんに引っ掛かるだけの体力や、余力があるだろか。
感情移入しながらも、しかし、不愛想に本を読みつつ。
ため息つく。

先週は、本当に具合が悪く。
特集上映を前に、つい、堀のことなど思い出したりしてしまったが。
そう書くこと自体、もう一人の亡くなった友人に、雲の上から蹴られるだろう。
酔っ払いの文章は、とんでもない。

先週に、日記を書くつもりだった。
のんきTwitterで伝言もしてもらっていたが、先々週だったかに観た、四半世紀前に脚本を書き、チーフ助監督をしたピンク映画のことを。

書かねばならないと思った。
この週末から上映してもらう劇場デビュー作よりも、もっと遥か前。
確かにいた、もっとうぶで、初期衝動をさらけ出した(と思うのは自分だけだが)無防備な自分を見つけてしまったから。

ところが、「つもり」通りにはいかないのが人生だ。
とにかく文章を書くのが苦手で、時間がかかる。
『ぬる燗』のことを書いたときもそうだったが、あれこれ思い出したりメモしたりするので、結局、一週間はかかりきりになってしまう。
「日」記では収まらない。
と、分かっているので、及び腰。

うだうだと腰重く、目を逸らしていたら、体調を崩してしまい。
おまけに、Web掲載のインタビュー記事の元原稿が送られてきて、びっくり。
うーん、これは、手を入れざるを得ない。
寝たり起きたりしながら、ちまちま言葉をいじるのに、足りない脳みそを持って行かれてしまった。

まあ、それが20年以上ぶりに観た『三十路秘書太股ご接待』について、まだ書きはじめれない言い訳だ。
1995年公開時のタイトルが、『人妻秘書肉体ご接待』だったのは覚えていたが。
(詳細なストーリー紹介とともに、その指摘をすぐにしてくれたブログもあった)
シナリオタイトルは、「平行四辺形」だった。
と、思い出させてくれたのは、つい数日前。
サード助監督として一緒に奮闘してくれた、黒川監督に教えられてだった。

山岡さんのデビュー作となってしまった、あの映画のいきさつについては、書いておくべきかもしれない。
阪神大震災とオウムのサリン事件に挟まれた、ほんのひと月余りに、怒涛のように様々なことが起きた。
往々にして映画製作とはそうなのだが、映画以上に、映画的な日々だった。

そして、あの作品を頑張ったために、結果的に僕は、ピンク映画の監督になることをあきらめざるを得なくなった。
青春の蹉跌だ。

当時は僕は、映画監督になろうとか、なれるとか、本当に全然思っていなかった。
けれど、ピンク映画は撮りたいと思っていたし、いつかピンクを撮るんだろうなと、漠然とだが心構えしながら、助監督をしていた。
が、叶わなくなったのだった。

あのあと、更に延々と、助監督を続ける人生となり。
僕の二十代は終わった。




2020年09月12日


成田さんが亡くなったと。
先ほど、知らされた。
昨夜だったそうだ。

突然知らされたわけではなかった。
7月末に、たまたま、というか当然なのだが、
ある連絡先を聞きがてら、それを尋ねる理由たる上映の
報告のために電話して。
「お元気ですか?」と不用意な開口一番、苦笑された。
「元気って、そういう状態とは真逆だな」と
あの深い声で。

沖島さんのときのことがあったので、初めての動揺ではなかった。
そして、結末が近く来ることも分かってしまった。
それゆえ、動揺は著しかった。

僕は結局、成田さんとは、たいそう呑ませてもらっただけで
関係は終わってしまうのだ。
学生のときから知ってる、
厄介な助監督の頃のことも知られている、
ぽつぽつとだが、30年になる、
一方的にだが、最も親しいプロデューサー。

監督デビューのきっかけを作ってくれた人、
でも、プロデュースには至らなかった、
10年後にもそんなことあった、
それも、もう10年前のこと。

成田さんにとっては、不遜で面倒で、僕は

言葉にならない。
自分が死者にとって、どういう存在だったかを考えても仕方ない。
ただ、悲しくてやりきれない。

混乱してるな。
7月末に動揺したから、亡くなったと聞いても、それほどでもない。
と、書こうとしたのだが。




2020年07月27日


先日、久々に上映イベントに参加しました。
映画館で映画を観ることは、もう、とっくに始めていたのですが、
イベント・スペースでの上映会に足を運ぶのは、何か月ぶりでした。

短編映像、それも美術系の作家?と言ったらいいいのか。
全く知らない若い人たちの作品や、
もう若くはない知り合いの未見の作品もちらほらあり。
どれも興味深く、面白い体験で。
しかも、アフター・トークのゲストが飴屋さんで、
終わった後、久々、一緒に呑みました。

コロナで自粛になってから、飴屋さんは映画ばかり観ているそうで。
「みんなたくさん映画観てるのに、映画の人たちは嬉しくないんだね」
と言われました。
それは、SAVE the CINEMAの運動やらのことを指してるんだろうなと思い、
スクリーンで観る映画体験と、配信の違いのことや、
配信で観られているのは定額無料の大手の映画ばかりで、
有料配信の僕の映画なんかはほとんど顧みられないことや、
インディペンデントの無料配信が自分で自分の首を絞めることに、
なるだろうという悲観的私見など、通りいっぺんの説明を、
ぽつぽつしながら、ふと。
でも、この、「嬉しくないの?」という問いは、重いなと思い。

だから、どうなんだというのはまだ、全然わからないのですが。
その後もずーっと、引っ掛かっているのでした。




2020年07月09日


つづきです。

昨夜は、『ぬるぬる燗燗』を一日早く、西山監督やラピュタのスタッフたちと、プリント・チェックで見せていただいた。
まさに、青春との邂逅だった。
懐かしく、すがすがしい。
おそらくビデオが出たとき以来だから、二十数年振りに観たのだが、こんな映画だったんだと驚くくらい、すっぽり記憶から抜け落ちていたこと多く。
いろいろ思い出されるのも、面白かった。

まずは、当たり前だが、こんなに藤田さんの映画だったんだ、ということ。
例えば、トラックの幌のすき間から、夢殿ぬる燗の秘密をのぞき込む、あのポーズ。
差し入れる手のひらを、こうかな、こっちかなと、散々こだわっておられたのを、カットが変わるたび微妙に角度を変えているのを見て、思い出した。
どっちが良い?と聞かれた私は、どっちだってさして変わりなし。
助監督の本音を言えば、一刻も早くシュート(撮影)して欲しい状況なので、おざなりに相槌を打ってしまったが、思えばそれが、藤田敏八だったのだ。

トレードマークの甚平も、衣装部だったかマネージャーに、いくつか持って来させてどれにするかと。
西山さんは、割とあっさり「こっちっス」と言うのだが、藤田さんが納得しなければ、決まらなかった。
だから、電柱の陰から偵察するときの子供用マスクも、藤田さんのアイデアだったと思う。

松本コンチータと二人芝居のシーンでは、無人の神社のありきたりな境内というロケ場所を、妙に気に入って下さり。
どう撮るかを西山さんが考えている傍らで、コンチに、自分がこう動いたらこうしてくれと細かく指示され、それを私が西山さんや芦澤さんに伝えるという、まるで演出・藤田敏八のようになっていた。

ワカメ酒のストリップ。
あれは、神代さんの『美加マドカ 指を濡らす女』をビデオで見せて、コンチと一緒に考えた踊りだ。
ワカメ酒だから陰毛は緑色だと、前張りにモシャモシャつけ毛をして、バレ隠しにしたり。
演出部の悪ノリが過ぎて、なんとも微笑ましい。

すっかり忘れていたが、ワカメ酒のシーンを撮った和室と、物部屋の娘(葉月蛍)の二階の部屋は、同じ一軒家のロケセットだ。
つまり、物部屋は、三か所の組み合わせだった。
早稲田の店が店内で、階段から上が、一軒家セットの二階。
ラストシーンで屋根伝いに逃げた蛍さんが、はしごで降りると、中野の縄のれんの店にツナガるわけだ。
苦労して探した(小津さんの)路地が、蛍さんとコンチが鉢合わせするワンカットのパンでしか生かされないのは、当時から悔しかった。
というか、あの鉢合わせも、西山さんの最初のカット割りでは、狭いフレームでたたみ重ねるモンタージュになっていて。
私が直訴して、照明部にも無理を言い、パンしてワンカットで見せる割りにしてもらった。
ような気がする。
いやはや、若気の至り。
監督、みなさま、ご迷惑おかけしました。

それから意外だったのは、こんなに多摩川河川敷のシーンが多かったのかと。
城野みささんのドラム缶風呂や、裸にどてらでコンチが抱き着く場面とか、よくもあんなに見晴らしのいい場所で、大っぴらにやったものだ。
あの頃は、公然わいせつスレスレの撮影を毎度こなしていたから、百戦錬磨。
若いし、へっちゃらだったのだろうが、今見ると冷や冷やしてしまう。
あのロケーションは確か、映画『無能の人』に出てくる河原が良いなと睨み、美術部に教えてもらったのだと思う。

『ぬる燗』は、通常のピンクよりは若干予算があったので、知り合いのメイクに安いギャラでついてもらったり。
(通常、ピンクにメイクはいない)
車両運転や制作進行として、カラオケ映像を一緒にやったADを呼んだり。
知恵を絞って精一杯、豪華な現場をしつらえた。
中でも、美術装飾で協力してもらった、大光寺さんら京映アーツのみなさん、そして今や照明の巨匠・長田達也さんには本当にお世話になった。

夢殿ジプシー酒場の、夜間撮影。
デジタルカメラの現在と違って、フィルム撮影の時代、ナイターは照明次第だった。
当然、ピンクの予算で、電源車やキロワットのライトを借りることはできない。
で、とにかくたくさん、強く、火を炊いたのだ。
焚火の炎が危ないくらい、いたるところでボーボー燃え上がっているのは、そんな酒場があったら面白かろうというだけでなく、照明としての理由もあった。

照明機材も借りれないが、エキストラに払う金もない。
なので、シネ研の後輩・先輩、出演者の知り合いをかき集めた。
暮れの真冬、吹きっさらしの河原である。
どんなに焚火が燃え盛っても、凍える寒さ。
その中で、夜通しロケにつき合ってもらわねばならない。
暖を取るのと御礼を兼ねて、本物の燗酒をふるまった。
だから、夢殿シーンの客たちの、半ばヤケクソな酔いっぷりは、演技だけではなかったのだ。

車椅子の男が、ぬる燗の効験あらたか、立ち上がり、しまいには走り出すというバカバカしいエピソード。
あれは、本当は、脚本と音楽の島田元さんがやるはずだった。
ところが、出番を待っているうちに、酔い潰れてしまった。
で、代わりに井川耕一郎さんが、ふざけた役を演じてくれたのだが、井川さんも相当酔っていた。
無茶苦茶に駆け回り、映画ではカットされたが、焚火を蹴散らし、大騒ぎになった。
実は、悪い方の片足をパンパンに腫らしての大熱演だったことが、後から分かり。
心打たれた護さんと、井川さんのその後の関係は、この一夜が生んだのだと思う。

一方、物部屋のエキストラは、オールスターだった。
とりわけ、速水典子さんが来てくれたのには、色めきだってしまい。
エキストラの配置で、ついつい目立つところにエコヒイキした。
そして、藤田敏八、渡辺護の御両人だけでなく、カウンター席には万田邦敏さんも、植岡喜晴さんも、監督だらけ。
お二人ともまだお若く、四十手前くらいだったろうか。
今の私よりも、はるかに年下とは、、、

思い出すこと、書き出したらキリが無い。
今日はこの辺りでやめておく。
明日は、西山さんの監督トークがある。
昨夜、試写の後でやはり一軒、寄ってしまい。
やはり、ぬるめの燗で、久々に二人で呑んだ。
沖島さんが亡くなって、以来だと思う。
昔、沖島さんに「僕は助監督を長くやった人は信用することにしてるんです」と、会ったばかりのときに言われたのを思い出し。
昨夜は、『ぬる燗』の助監督を頑張って本当に良かったと、しみじみ噛み締める酒だった。

もしかしたら、またいつか、つづきを書くかもしれません。




2020年07月08日


前の続きで、『ぬるぬる燗燗』について書きます。

『ぬる燗』は、もともと関西テレビの異色の深夜ドラマ「DORAMADAS」の一篇として制作された。
それを、同じ西山監督・藤田敏八さん主演で成人映画にリメイクするという企画であり、私はその映画版からの参加だった。
TV版との違いとして、まず挙げられるのは、ジプシー酒場「夢殿」の主人役。
すでに大和屋竺さんが亡くなられていたので、大和屋さんとも縁深い、ピンク映画の巨匠・渡辺護さんが演ずることになった。
これは、大きな違いだった。
護さんと大和屋さんの風貌、キャラクターの醸し出すものの違いもあるが、それだけでなく(「夢殿」と「物部屋」の)ライバルの意味合いが変わると。

大和屋さんは、若松プロでホンを書いたり監督もしているから、ピンクのイメージが強いかもしれないが、本当はそうではない。
そもそもは日活の助監督出身であるし鈴木清順グループの要なのだから、アウトローとはいえ、やはり撮影所出身である。
一方、護さんははじめから撮影所外の巷で映画を撮ってきた、いわば根っからの「マチバ(町場)」の人だ。
私が助監督を始めた頃にもまだ、この「マチバ」という言い方は、撮影所に対する屈折した感情を含んで若干残っていた。
おそらく、護さんには、反骨精神とともに相当強くあったはず。
この思いをすくい取るべきではないかと考えた。
そこで、物部屋(藤田さん)側の俳優陣と、夢殿(護さん)側の俳優陣は別々に「ホン読み」をして、現場まで芝居を合わせないことを提案し、監督も乗ってくれた。
西山さんは、無口で自ら仕切ったりはしない人だったが、周囲からの意見に対して「イイっす」「ダメっす」の選択を、決して間違えない監督という印象が、私にはある。
実際、この作戦は護さんを大いに刺激したようで、現場が終わってからも何度か思い出し誉められたから、演出としても良い効果があったのではないかと思う。

もう一つ、地味だが重要な変更があった。
それは、物部屋のロケ先だ。
確かプロデューサーは、「TV版と同じ店で良い」と言い、監督もはじめはそのつもりだったはずだ。
しかし、私はTV版を見て予測していたが、実際に下見をしてみて、その店はメインセットにするには「狭い」と思った。
カウンター席しか無い、バーのような細長い空間では、芝居がカウンター越しのやり取りにしかならない。
テレビドラマなら小芝居の切り返しでも成り立つが、スクリーンに掛ける映画版を作るのに、それでいいのだろうか。
コの字型の囲みやL字型カウンターの、少し広めの店を狭く見せる方が、照明の逃げ場もあるしカメラ・ポジションも自由が利くだろう。
藤田さんもTVと同じ店をあてがわれたら、意気が揚がらないのでは?と主張した。

けれども、それは自分で自分の首を絞める行為である。
良き間取りで雰囲気があって、協力的にピンク映画に貸してくれる呑み屋なんて、そうそうあるものじゃない。
しかもピンク体制だから、制作部がいない。
ロケハンしてロケ交渉するのも、自分。
今のようにグルナビとかストリートビューどころか、インターネットすら無い時代だ。
まずは京王線と南武線を、各駅停車で一軒一軒、しらみつぶしに見て回った。
京王線か南武線だったのは、登戸を物語の舞台に設定したから。
「夢殿」のテント酒場を設営する良きポイントが、多摩川河川敷にあったということ。
そして、再開発前の当時の登戸駅周辺は、昭和のにおいが色濃く残る土地だった。

けれども、借りれる店は、登戸の近くでは見つからなかった。
ここだ!と思って持ち掛けても、(当たり前ではあるが)けんもほろろに追い出されたこと、両手に余る。
心が折れそうになった…とでも今風に言って、同情を買いたいところだが、そうでもなかったのが不思議だ。
とにかく、がむしゃらだったのだろう。
現場(クランクイン)から逆算するに、ロケハンは一週間で目途を付けねばならず、方針を切り替えた。

実は、目ぼしい店を、登戸から遠く離れた早稲田で見つけてあったのだ。
しかし、その店は、「オモテ」つまり周囲に風情が無かった。
店内の間取りはもちろん、藤田さんが縄のれんを仕舞ったりする情景も、イイ感じで撮れる場所が理想だったのだ。
西山さんも私も、同じ大学出身。
その手を使って、まずは早稲田の店の主を拝み倒した。
約束を取り付けてから、オモテは別で探し始めた。
「マッチング」と言うのだが、中と外を切り離して撮ることの難易度が高いのは、映画製作をしたことがある人は分かると思う。
監督だけでなく、撮影部や照明部にも「つながらない」と言わせない、良き場所を見つけねばならない。
今度は西武線と東西線、中央線を同様に、ひと駅ひと駅歩き回り、ついに見つけたのだ。

中野の丸井の、裏辺りだったと思う。
その路地に一歩踏み込むなりピンと来て、ここしかないと思った。
早稲田の店と「つながる」、味のある縄のれんの店もすぐに見つかり、お願いをした。
意外にも、すんなり了解が取れた。
それにはわけがあった。
店の主は、確か二代目だと言っていたが、先代の頃に「小津さんもこの路地で撮ったんですよ」と言われたのだ。

もう、深夜。
このあたりで、「つづく」にしようと思います。




2020年07月05日


ラピュタ阿佐ヶ谷は、たぶん最もよく行く映画館。
電車で数駅という近さもあるが、とにかくフィルムで映画が観れるのが嬉しい。
遠い記憶の映画を再見したり、未見の作品を私的に発見したり。
映画の勉強と愉悦で、いつもお世話になっているが、そのラピュタで今週、『ぬるぬる燗燗』が掛かる。

『ぬる燗』は、助監督時代の思い出の一本だ。
十年やった助監督を通じて、特に腕を振るった作品と自信をもって言える。
あれは1995年だから、年初から阪神大震災やオウムの騒動があった年の暮れ。
師走のほぼひと月で、準備から現場のクランクアップまでを成し遂げた。
とにかく大変だったが、西山監督のために頑張った。

私が西山洋一(当時は市ではなかった)さんと初めて会ったのは、大学一年の時だから、1988年の冬だったと思う。
サークルOBが16㎜の自主映画を作るから手伝うかと誘われ、有無を言わさず連れていかれたのが、高橋洋脚本、西山監督の『エルヴィスの娘』という作品だった。
そのときの思い出の方が、牧歌的な面白話がいくつもあるのだが、今回は主題でないので割愛する。
要は、学生時代から慕っていた先輩だったので、プロの現場で働くようになっても、私にとって西山さんは特別な監督だったのだ。

大変だったのは、ピンク映画だからということもあった。
ピンクは、当時はまだ35㎜フィルムで撮影していた。
しかし、最低限の予算しかないので、ピンク体制と呼ばれる小規模スタッフで、4日程度で撮り上げる。
音はオール・アフレコだから、録音部は無し。
撮影・照明の技術パート以外は、すべて演出部が兼ねないといけない。
これが、助監督にとって、特殊で厄介な仕事の所以だった。

ところで、助監督というと監督の小間使いのように思われている節もあるが、そんなことは断じてない。
映画製作現場の要であり、むしろ監督ですら、助監督の引いたレールの上でしか現場は動かせない。
製作現場の土台作りをする大切なポジションなのだ。
ちなみに演出部とは、チーフ、セカンド、サード…と3~4人で組まれる助監督チーム。
普通はそれぞれ担当部署があり、脚本や演出意図にもとづき、監督の代わりに差配して各パートに仕事をさせる。
言わば、中間管理職のような役割である。

が、ピンク体制では、管理するパートにスタッフがいない。
だから、自らやるしかない。
同様に監督も、演出に専念するわけにはいかず、現場を成立させるための差配を随所ですることになる。
それには現場経験が十分に必要となり、よって、ピンクの監督はピンク専門で助監督をしてきた出身が多い。
ところが、西山さんは初めてのピンク映画であるうえ、助監督経験もほぼない監督だった。
さらに、当時は今以上に無口で、自分から話し出すことは皆無。
何か聞いても返ってくる言葉は、「イイっす(OK)」「ダメっす(NG)」「そうっすねえ…(保留)」の大体三つしかない。
この三つの言葉から監督の意図を理解し、翻訳してスタッフ・キャストに伝え、現場を動かし、成立させる使命が、私に課せられたというわけだ。
この大変さを想像していただけるだろうか?

私は、ピンク出身とはとても言えない程の場数であったが、3年ほどフィルムキッズという、ピンク映画も受ける制作会社でよく仕事をしていたので、ピンクの現場も多少は経験していたし、すでにチーフも一本務めていた。
歳は27,8で、キャリアもまだ四,五年だったが、いいタイミングだった。
その年の夏には、カメラマンとしてはまだ駆け出しだった、今や世界の芦澤明子さんとも、これまた大変な現場を御一緒して信頼を得ていた。
ここはひとつ、西山監督に思う存分、演出してもらい、是が非でも傑作を撮らせてみせようと、意欲と覚悟でパンパンに張り詰めて、『ぬる燗』の現場に合流したのだった。

つづく(つもりです)




2020年05月14日


またまた、夜中に書いている。
感染させない(感染したくない)の空気に囲まれて、
なぜか、ふと、神代(辰巳)さんのことを思い出す。
ご自宅で、座卓を囲んでいて、奥さんが娘さんを連れて外出して。
二人きりになった途端に、「一本くれ」と煙草を指した。

すでに、人工呼吸器を付けた状態だった。
当然断った。
「勘弁してください」と。
そう口走ったのは、神代さんの体の心配よりも、小さな保身。
煙草を吸って咳き込んで、救急車で運ばれるようなことになったら、
というイメージが脳裏をかすめ。
自分が責められるという小心が、先に来たのだ。

神代さんには、当然、見透かされた。
私の常識的でつまらない反応に、苦々しく呟いた。
「おめえの良いところは吸ってる煙草だけなのに、それさえ、俺に渡せねえのか」と。
吐き捨てるように。
私が吸っていたのは、ショート・ホープだった。

つまらない世の中だ。
つまらない世の中は、つまらない人間が作るものだ。
昭和一桁世代の神代さんは、例に漏れず、大正ロマンに憧憬があった。
スペイン風邪が猛威を振るうなか、「宵待草」は流行した。
コロナと、ずいぶん違うもんだ。






2020年04月23日


いまさらだが、インターネットが怖い。
と、ネットの日記に書き込んでいる、馬鹿らしさ、よ。
なにもかもが、オンライン化への流れ、だ。
オンラインって何?

打合せを mtg と略されるのさえ、戸惑う僕が、
PCの画面の小窓に並ぶ、動く顔の画像と話している。
ここにはいない人を、そこにいると思い込む。
それが当たり前になる、共通認識になる社会の、薄気味悪さ。
でも、それも、じきに慣れていくのだろう。

そんなに簡単に置き換えていって、いいのかな。
「場」がすり替えられ、「関係」が変質し、「生」も侵食される。
「性」も、か。

フィルム映画が、デジタルシネマに置き換えられたときに似ている。
扱いやすく便利になって、経済的で何が悪いのかと。
デジタルもフィルムも、映画に違いはなし。
そして、昔から映画は変わり続けてきた、そういうものだと。
いつの間にか当たり前になり、違和感さえ抱かなくなる。

会議も、授業も、おしゃべりもオンライン。
安全だし、効率的だし、何か悪い?
仕方ないでしょ、今は会えない。
そうやって、距離を作り、
ネットを介して関係を結ぶようになり。
人間も変わっていってしまうのだろう。




2020年04月04日


また夜中に書いている。

この一週間で空気の圧が一段と強まったように思う。
抑圧という形で、世の中が変化するのが日本の不健康なところだろう。
そこには、理がない。
そういうものだという同調だけが、どこからともなく求められる。
だから流され、うやむやになる。

傷つくことを必要以上に恐れる者たちは、
相手を、誰かを傷つけることに、とても敏感である。
それは自己防御なのだろう。
「自粛」を「要請」される理不尽に、抗せず、スルーできるのは、
そういうメンタリティも多分に反映しているのかもしれない。

この、妙に静かで不穏な春には、覚えがある。
既視感のある人は少なくないはずだ。
しかし、何かが違う。
今回の方が不健全に感じるのは、なぜだろう?




2020年03月28日


27日の深夜に書いています。

こんな晩だからこそ(というのは言い訳ですが)、
知っている呑み屋に入った。
ずいぶん前から、若者たちばかりで賑わうようになっていて、
あろうことか(とあえて言っておこう)今夜もいっぱいだったので、
肩身を狭くして、空いていた座敷の一席に座り、チビチビ飲みながら、
両隣の会話を、聞こえてくるままに聞いていた。

片側は、ライブの反省会で。
しばらくして、芸人とその親しい者たちの打上げだと分かった。
ピンなのかチームなのかは知らねど、その彼女らしき女の子が、めっちゃディスっていた。
けっこう、シビアな瞬間もあった。

もう片側は、はじめはカップルだったが、やがて年上女性が相席して。
しばらくしてから、女の子の母親なのだと会話から理解。
仲良し友達のような母娘。
娘の彼氏を肴に、また彼氏の方もいい感じで母親を持ち上げながら、盛り上がっている。
のろ気ているというべきか。

うん、両側とも、とてもいい感じだ。
若者たちが、こんなに大らかに呑んでいることを、僕は好ましいと思う。
こんな状況の夜だからこそ、普段通りで良いと思う。
でも、と。

一時間ほどしかいなかったが、どちら側からも、社会状況への抗議はおろか、心配がひと言も漏れなかった。
お会計を待つ間、カウンター席からもそんな話題は聞き取れなかった。

それでいいのだろうかと。
そういうことなのだなと。

世間は分断されている。
SNSは無力だと。
あらゆる抵抗手段が、脱臼されているのだろうと思う。












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