いよいよ、吉祥寺で 『眠り姫』 です。 僕は今も、ぎりぎり徒歩圏内に住んでいるのですが、 東京で一人暮らしを始めてから30年以上、 この街を離れることは、なぜか、ありませんでした。
『眠り姫』 は、ある冬の、吉祥寺の光を捉えた映画です。 今から15年前、最小限の制作体制で映画を作ろうと決意したとき、 自分が住んでいる、住んできた場所で撮影を始めたのは、 当然であり、最良の選択でした。
僕は、吉祥寺が好きでした。 (今は、ちょっと、分かりません) 吉祥寺での上映は、今回が初めてではなく。 ムーブオーバー(続映)当初、2008年の正月明けにも、 今は無きバウスシアターで上映されたのですが、 そのときは、「ご当地映画」 だなんて、言いませんでした。 この街が好きだったから、ロケしたのをことさら喧伝しようとは、 むしろ思えませんでした。 なんか、浅ましい、というか。
今回は、なぜだろう、公言しようと思いました。 映画館のオープンという、お祭りに参加できる喜びかもしれません。 でも、浮かれたりせず、ひっそりと感慨に浸りたい。 上映が12年も続いてきて、 再びこの地に戻って、『眠り姫』 が上映されること。 とても楽しみです。
今回、アフター・トークで登壇いただく、あるゲストの方から、 「あんな(人の姿をほとんど見せない)映画を作ったのはなぜか」、 「それが今のあなたの活動(「音から作る映画」)とどう結びついているのか」、 と、至極真っ当な質問をメールされて、答えた返信が、 わりとしっかり書けたので、 ちょいと長いですが、以下に記します。
『眠り姫』 を制作したのは、 2003~2005年ですから、もう15年近く前のことですが、 動機の一つは、「嫌な予感」でした。 たぶん、あの頃もし病院にかかったとしたら、 「鬱ですね」 と簡単に診断されて、それで終わってしまったかもしれません。 しかし、その予感はある種真っ当な感覚で、 ゼロ年代に入った頃から急速に強まったのですが、 もの凄い閉塞感、 これから世の中はどんどん悪くなっていくだろうという、暗い感じでした。 それを、山本直樹さんの原作と、その原作の内田百閒「山高帽子」、 さらにその元となった芥川龍之介の自殺というエピソードに託して、 ああいう表現にしてみたのです。
作品が完成し、劇場公開される頃(2007年)には、 ますます世の中は、サービス過剰で分かりやすさばかりを求める、 不寛容な社会へ突き進んでいったかと思います。 そこで、当時「美しい風景映画」 というような評判で、 アンコールを繰り返していた自作に対して、自虐的な実験をします。 それが 「闇の中の眠り姫」 (初上演2010年)でした。 この上演で使用したスピーカーが、 その頃 UPLINKでは、もっぱらライブ・イベント用に使われていた 田口音響のスピーカーでした。 UPLINK吉祥寺はオープンに際して、全館に、 田口音響特注の平面スピーカーを設備したそうなので、 どのような聞こえ方をするか、私も楽しみです。
さて。 震災を挟んで、私は 『DUBHOUSE』 という、 フィルムでしか実現不能な短編映画を、建築家の鈴木了二氏と作るのですが、 その劇場公開時のイベントで、久々に 「闇の中の眠り姫」 を催して、 空気の変化に、唖然とします。 詳しくは省きますが、端的に言えば、 震災以降、悪い予感(閉塞感)は不可逆の現実となってしまった。 今さら憂いてもしょうがない、 もう無理やりにでも、拡げていかねばならないと強く感じたのです。 その衝動と、デジタル問題への関心が両輪となり、 始まったのが 「音から作る映画」 プロジェクトでした。 具体的には、映画を「再び」空間へ開放するライブ、 『映画としての音楽』 やアクースモニウム上映、 つまり、白い1枚のスクリーンへの信仰の放棄でした。 このプロジェクトは、並行して、 「映画以内、映画以後、映画辺境」 という 私の勉強のための連続講座も催しながら進行しました。
私は、1990年代に10年ほど、 商業映画の助監督をすることからキャリアを始め、 映画についてはアカデミックな教育を受けることもなく、 闇雲と言っていいほど、ただたくさん見ただけです。 なので、シュールレアリスムの時代の映画も、 エクスパンデッドシネマも、構造映画も、 観れる機会にいろいろ見ましたが、 よく分からないというのが、正直なところです。 でも、映画という表現形式が、とてもとても好きだから、 映画が映画に閉じてしまうことを、いかがなものかと思っています。
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